有馬家上屋敷

有馬 頼徸(ありま よりゆき)は、江戸時代中期の大名・数学者(和算家。

筑後国久留米藩の第7代藩主。久留米藩有馬家8代。

有馬家という大名は3家有った。

何れも何の縁も無いのだが、元々、今の兵庫に居た有馬家が九州へ

そして、九州に居た有馬家が越前丸岡7万石にへ移封しているのが、

何か面白い。


優れていたのは和算であり、関流の教えを継ぐ山路主住に師事して

これを学んだ。

それまで52桁しか算出されていなかった円周率をさらに30桁算出し、

小数の計算まで成立させた。

明和6年(1769年には豊田文景の筆名で『拾璣算法』5巻を著した。


徳川時代を通じても最も幸福な殿様だったというこの殿様、

筑後国久留米藩有馬21万石の藩主でした。

 水天宮

江戸では「情け有馬の水天宮」で知られた大名であり、又、江戸で

最も高い火の見櫓を持つ藩で、玄蕃桶でも知られた。


水天宮は、本来、壇ノ浦の戦いで形勢利非ずとみて入水した

安徳天皇(3種の神器も一緒でした)や生母・女官たちの冥福を

祈る為でしたが、いつの間にか安産祈願・子授けの神様となったのです。

しかも、水天宮ですから菅原道真公、といえば学問の神様です。

寺小屋の子供は毎年、25日の天神祭には桜の花見

(こちらが目的でしょうが)を兼てお参りに来て、学問の向上を

願ったのです。

 天神祭


花の山 散るな散るなと 師匠下知

教え子を大勢引き連れての花見、迷子にならぬように喚いている情景。

 飛鳥山花見
メタボンのブログ


江戸後期、大名が江戸藩邸に国許から神仏を屋敷に

勧請することが流行した。

虎ノ門の金比羅宮(丸亀藩上屋敷)、新橋の塩竈神社など

50以上の屋敷神があった。


御庭番の川村家でも、屋敷神が有りました。

川村家屋敷神  妻恋稲荷からの勧請である。

川村清兵衛の自筆の絵である
メタボンのブログ


虎ノ門

これは、最初に柳川藩立花家が太郎稲荷を勧請したことによる。

享和3年(1803)評判に群衆が参詣を求めて列をなしたという。

2年ほどで流行は終ったが、周辺には水茶屋飲み屋ができ、

草紙まで出来た。

丁度、この時期に麻疹が流行したこともあり、稲荷の霊験が

宣伝されたためである。

船で行きましょう浅草さして、新堀の、雪当たり、さても賑わう

太郎稲荷の御利生、ありがたや」と謳われた。

後年の慶応3年(1867)にも再度流行している。


稲荷参拝は流行しました。

大奥でも盛んに行われ、奥女中のませ子は述べてます。

御年寄の稲荷への代参も有りません。

大奥稲荷参詣


この稲荷参拝を下級女中(部屋方)から見た資料があります。

「お稲荷の時には、御末が仕事師の格好をして、

丁子髷を結い、歯を白くし眉を引き、男の風をし、

御庭先に行ってお獅子を舞う。

その折には、笛太鼓を用ちゆるので、御末等の意気込みは

一通りならず、御祝儀が済むと、直ぐに部屋に帰り、

お歯黒を付けながら髪を結って、ドンドン御用に出て行く。

早いのが自慢である。


これも決まっている行事でもなんでもないが、下働きをしている

御末たちの日頃の鬱憤晴らしである。

新参舞と同じで、御賑やかしという名目のもとでするのです。

こうした事が口コミで伝わっていることが多く、それを大奥の

行事として伝承されてしまい、誤解を与えるのです。



 
この成功を見てか、文政2年(1819)赤羽根に久留米藩有馬家が

水天宮を勧請し公開した。

増上寺の裏側です。


毎月五日の水天宮参りには安産・危難・水難除けの神として

大勢の参拝者で溢れた。

普段は入れない大名屋敷に入り、水天宮にお参りし、

火の見櫓を見るというのが人気であった。

この収入で年間3千両の収入があったという。 

これは貧乏な他の大名の垂涎の的でした。

 背後に火の見櫓が見える

又、この藩では以前、屋敷の長屋に住む藩士の生活振りを紹介しました。

帰国の日をただ只管願ってるが、或る日、幕命により延期になり

荒れ狂う宴会の様子も絵に残っていて、いかにも残念であったろう

その思い入れが残ってます。

 荒れ狂う宴

上の稲荷御参詣も定まったことではなく、

御遊びながらの御参詣になる。