富岡八幡宮の門前には、料理屋で知られた平清もあり、

2軒茶屋もありました。


二軒茶屋というのは亰の祇園の二軒茶屋を真似て作ったもので

堀に面していたので水路を使って、大川から江戸湾に出ることも

可能であった。

2軒だけではなく当時は、松本・宮本・富本・伊勢屋・夷屋の

6軒が有った。


雪の振りし来る中での宴の様子の絵が有るので、雪景色が

大変良かったようです。

でも、開けっ放しですから相当寒いでしょうが、それを言わないのが

多分粋というものなのでしょうね。

 二軒茶屋

江戸は水路で何処にでも素早く行けたのです。

舟から降りると、直ぐ店ですから、待ち合わせや接待にも

非常に便利でした。

平清

メタボンのブログ

平清は、「守貞漫稿」では、八百善、深川の平清、柳橋の川長は

「宅広からずと雖も、美食也」と褒めている。

料理見立番付の行事の欄に八百善と一緒に書かれているだけでも

その知名度が窺われる。

名前は主人の平野清兵衛に因んだものだが、

平清盛にも関係している。

名物の潮汁は、塩のみだけで仕上げていることから「潮汁」(澄し汁)

と名付けられた。

平清のおごりの末もうしほなり


当時の江戸っ子の好きな料理屋の番付が有ります。

これを見ると、行司役として八百善がある。

八百善は色々な番付が有るが、何処の番付でも中央に位置している。

それだけ認められていたのでしょう。

八百善の両側には、深川・平清と檜物町・嶋村が控えてる。


最高位である大関、東は采女が原・酔月楼で采女が原とは今の

銀座5丁目でした。

当時は草ぼうぼうの原っぱであった様で、迷子になる人もいたようです。

繁華街ではありません。

繁華街ではなく、少し外れの所に店を構えていたようです。


関脇は「浅代地・川長」浅草の大川に面した所にあった。

 15代将軍慶喜撮影

前頭筆頭は「佐久町・中重」別の番付では行事にもなってる有名店。

小結が「甚左ヱ・豊田」今の小網町にあり魚市場に近かったので

新鮮な魚料理が評判でした。


2枚目は「神明・くるまや」、3枚目は「木原店・翁庵」鯛料理が評判。

5枚目は「今戸・大七」新鮮な車海老が知られてた。

 大七

6枚目の「霊巌島・扇屋」は、鮟鱇料理が有名。

最下段には、別格の扱いで茶屋が並んでいる。

葛西太郎で知られる向島の中田屋、木母寺内の植半・植木屋半兵衛、

王子稲荷の扇屋などである。


王子には、海老屋もあり王子稲荷の門前にあり、江戸からは1日がかりの

旅であったが王子稲荷もあり多くの人を集めた。

万延元年(1860)イギリスの植物学者のフォーチューンは招待され

王子に来たが、周囲の景色を絶賛している。




それに対して西の格付けは、大関は「橋場・川口」、関脇は「芳町・櫻井」

伊豆半島からの船で熱海温泉のお湯を運び入れるのが評判だった。

小結が「甚左ヱ・百尺楼」魚料理で有名。

前頭筆頭の「今戸・有明楼」は鮎料理。

2枚目の「蔵前・誰が袖」は、初鰹を出すので有名。

7枚目には富岡八幡境内にあった「深川・松本」伊勢屋とともに

二軒茶屋で有名。

二段目の「堀江町・さぬきや」新鮮な鮒料理。

その下の料理屋も、それぞれ魚の鯒や鰆、飛魚など特色ある

料理を得意としていた。


ついでに番付を紹介します。

「北都全盛一覧」というもので吉原の当時の一流どころ

48人の花魁の芸を記したものです。北都とは、

江戸の中心であるから日本橋から見ての事で、

南都というと品川遊郭をいいます。




それは兎も角、遊女というとお遊びのお相手というイメージが有るが、

そうではなく大名の姫君?のように最高の教養と芸を

持っていたという事を認識してください。

 医者に変装して吉原に来る坊主


吉原においては、昼に来る客が上客とされる。

「上は昼来て夜帰る、中は夜来て朝帰る、下下の下の下が居続けする」


 朝帰り



司馬さんの小説「峠」での河井継之助と稲本楼の小稲との丁々発止の

遣り取りを思い出します。

「峠」から抜粋します。

小稲の部屋の調度品を眺めている。

皆大名道具だった。

床は立派な造り床である。

見事な花が活かっている。

煙草盆が出されたが、これは金蒔絵であり、

煙管は紋散らしの銀伸べであった。

碁盤・将棋盤・双六盤まである。

文台の上には、螺鈿がきらきら光る硯箱に料紙が揃えてある。

別の隅には茶道具も置かれていた。

茶は重要な表芸の一つだった。

「まるで大名の姫君」だと思ったが、或いは、大名の姫君よりも

この部屋の主の方が学芸の教養が有るかもしれない」

 花魁の部屋


番付の最高位には、「江戸町。玉屋・若紫」とあり、彼女の得意は茶道と

生花であった。

得意芸を見ると、茶花、歌三曲、俳諧、琴歌、筆画、歌碁、酒妾、3曲

書花、茶画、歌茶、歌拳、文画、和歌、香画、画3曲、発句、花華、歌道

書画、酒碁


3曲とは、3種類の楽器の演奏の事で、琴、三味線、尺八或いは胡弓で、

歌3曲とは、カラオケで3曲歌う事ではないビックリマーク

和歌と3曲が出来る事である。


酒妾とは、おそらく酒持ちの良いという事でしょう、勿論酒も強い。

歌・拳とは、和歌と拳が強い。

酒碁は、酒は勿論、碁も強いですよ。

 拳相撲

文詩画は、漢詩も作れ絵も描く。

歌茶香、香道匂いを嗅いで香を中てるという貴族のゲームです。


こうした事を見ると、最高級の花魁は最高の教育を受け、身に付けて

客の相手をし、客もそれを期待しての事であったに違いない。

幾ら金が有っても大名級の雰囲気はそうは味わえないからである。


例によって、いきなり関係のない問題に移ります。
親の目を 進んだ息子 鼻が落ち
吉原にしろ岡場所にしろ、宿場の飯盛女にしろ、

どちらにしても怖いのは梅毒や淋病などの性病でした。


現代では、淋病と梅毒は区別されているが、江戸時代は同じに

されていたようで非常に多かった。


淋病は、徳川家康が江戸開府して後、60才になって罹った。

犯人は誰かは私には判りません。

この病気は、排尿時に強烈な痛みと膿が出てくるのが特徴でした。

軍隊の兵営の入隊検査でも、いきなり局部をギュット握られたそうで、

その時は激痛が襲ったと経験者が述べています。


江戸時代は、治療法としては、川柳に有る様に

「淋病の薬 赤染衛門」

と云われるように、生理中の女性と関係を持つのが良いとされた。

勿論、これは迷信です。


梅毒に関しても、特効薬は無く、水銀を混ざってる薬を飲んだり、

或いは中国の漢方薬である「山帰来」を飲んでいた。


梅毒の場合、病状は3期に分けられている。

1期目は、感染後数日後から数週間後であり、

2期目は、感染から数か月後である。

3期目は、更に症状が進んで髪の毛を抜ける段階である。


廓の場合、遊女が感染すると、髪の毛が抜け始め無残な状態になる。

こうなると廓の楼主は、遊女を謹慎させ客を取らせない。

この状態を、吉原では「鳥屋(とや)につく」と表現した。

従って、第3期目に入っているのであろう。


しかし、その後、ある程度の時間が経過すると症状が落ち着き

脱毛や発疹が収まる。

この状態を「鳥屋出」といった。


こうなると、当の遊女は、これ以降は梅毒に懸らず、妊娠もし難いと

信じられ、遊女としての価値も上がるのである。


勿論、治った訳ではなく、猩々は進行しているのだから、

客を獲るのは梅毒を感染させていたのである。


「解体新書」の新田玄白は50年間医者として活動していた中で

年間の患者千人中の内、700から800人は梅毒に

感染していたという。


奉行所は、遊女が感染源であるとは思っていたが、

積極的な予防もしなかった為に

余計に感染者を増やしていたという事になる。

  吉原での検診

しかし、江戸の人々を恐怖に陥れたのは、もっと恐ろしい病気でした。

安永2年(1773)に流行した病名不明の「はやりやまい」では

約19万人の死者をだし、安政5年(1858)のアメリカとの

開国条約後に流行したコレラでは、1ヶ月に23万人。

文久2年(1862)の麻疹では、26万人という今では信じられない

多くの死者を出したという。


コレラの時には、火葬所が間に合わず、やむをえず死体を品川や

高輪から海に投げたという記録まである。

 混雑する火葬所

参考までに、江戸時代の平均身長はというと、庶民層では

男 155~156センチ

女 143~145センチ


これが縄文時代に遡ると

男 158センチ

女 147センチ


弥生時代

男 163センチ

女 159センチ


古墳時代

男 163センチ

女 152センチ


どうして古墳時代が背が高かったのかは、まだ判らないそうです。

食い物であったのか、何であったのでしょうか?


江戸時代の低身長は、油脂や蛋白質の摂取が極端に少なかったからで

質素な食生活の影響でした。

現代は勿論、高タンパク高カロリーの生活様式の為ですね。

これは、直ぐ理解できます。