この頃毒見役・宗八の周りではいろいろ事件が起こりました。
元禄御畳奉行日記では、「継友、今日召上られ候御菓子の重の内
尺取り虫、蜘蛛巣これあり、御台所頭、同組頭が蟄居仰せつけ
られ候」
何故か、重箱に虫が入っていて、責任を取らされて蟄居処分です。
蟄居とは、、閉門の上、自宅の一室に謹慎させるもの。
これは、広島藩主・浅野侯の時にも発生しました。
「時には、食物に中にゴミが入っていることが有って、
それを人に見せんように隠そうとするが、大きなものは
隠しきれんので困るんです。
一度どうしたものか、ネズミの糞が入っていたのを、隠しおおせんので、
大騒動になったことが有ります。
これは、うっちゃっておくと、腹を斬らなければならないようになるので、
特別を以て許すということにした。
それも何か言草を付けて、やむを得ず入ったのだ、という事にして
許したのです」
苦心しての対応ですね。
又、食事についてはこう述べています。
「食物はまず台所奉行が味見します。そして、近習の者が行う、
食味が不味くても加減が悪くても一言も云えない。
何か嫌いなものが出た時は目を白黒して吞みこんだという時が有った。
なかなか面倒なものです。
食事は朝は焼味噌に豆腐、昼と晩が1汁二菜です。
多く喰ったり少なく喰ったりすることもできない。
喰い方が減ると調理が悪いのではないかと思い調べるのである。
2膳の飯に対して菜をどのくらい食べるというのが決まっていて、
それ以上もそれ以下もうっかり食べられない。」
それ以外でも、新しい御台所頭が就任したが、部下の御膳番が
自宅で料理した魚を食べて中毒死という事件もあった。
御畳奉行日記では「稲葉惣右衛門死、49歳。
総身に銭ほどづつ黒赤く、発熱吐血あり、河豚の毒という」
更に、新しい御台所頭にも事件が起こった。
場所は、禁制である藩主の御漁場でした。
禁制の場所で投網を打っていた武士が居たのです。
温厚な台所頭は、咳払いをして注意を促したが、却って、煩いと
怒鳴り唾を吐いたのです。
怒り心頭になった頭は、禁制の場所でするとは言語道断と
向かい合った。
ところがこの武士は、剣と拳法の達人であり、膝の上に置いた石を
手刀で撃つと砕け散るという技もあり、そして必殺の武器である
「鼠落し」の術も持っていたのです。
この術は、鼠を睨み落すことが出来る術で、或る大名家の事だが
鼠が大変憶いて困っている時聞き、早速、術を披露した。
その結果、米俵の上は気絶した鼠で一杯になったという。
ところが落ちが有って、あまり長時間やっていたので、
目の玉がひっくり返って其の儘になって、自分も倒れたという。
さて、この達人を前に向うが、勝負になりません。
そこに駆け付けたのが、毒見役の宗八でした。
相手の武士を咎めての激論となり、その結果、三日後に名代として
決闘をする事になりました。
しかし、時間が経つと冷静になり、自分が武術には全く自信が
無い事に気付いたのです。
その日から宗八は勝つ手段を考えて、又、宗八を助けようと
友人たちが大勢駆けつけてきた。
そこで編み出された作戦が有りました。
必勝の作戦でした。
当日、決闘に行く宗八の姿は珍妙部類の格好でした。
ばっちょ笠に洗い晒しの筒袖の上着に軽さん、首に頭だ袋
革の足袋に草鞋を穿き、腰には小脇差という姿だった。
広場に行くと、端の銀杏の大樹の根本に立った。
ここなら寺の土塀が後ろを守ってくれるからである。
相手の武士が姿を現し、刀を抜いて宗八に向ってきた。
すると、宗八は九座村の中に隠しておいた魚籠を
10歩の距離に近づいた相手に向って、或るものを投げつけた。
刀で切り払われた魚籠の中から出てきたのは、数匹の蛇で
頭上から蛇を浴びた相手は悲鳴を上げて気絶した。
そして、宗八は刀を拾い、その刀を上司の台所頭に土足で踏ませ
更に、土に突き刺した。
このれで面目を失った武士は、その夜、名古屋を出奔した。
実は、相手が大の蛇嫌いというのを調べて、これで勝てると思い、
数日間友人に頼んで蛇を捕まえて貰ったのです。
相手は「足高くも(蛇)を悪む」とあり、実は前の仕官先を
しくじったのも蛇の所為だったのです。
日向・油津
元は、九州日向国内藤家の家臣でした
夏の夕方の事でした。
朋輩が悪戯で荒縄を「ほら、蛇だ」と云って放ってきたのです
しかし、それを蛇だと思い込んで気を失い、後でmれが縄と
知らされ激怒した彼は悪戯をした相手を斬殺したのです。
しかし、宗八のこの活躍は、藩主継友の耳に届き、喜んだ
継友は御目通りを許し、蛇代として加増40石、そして蛇紋を
与えた。
更に御褒美が有りました。
継友寵愛の側室を嫁に与えたのです。
御畳奉行日記では「今日、宰相様御前番粟飯原宗八、
御意にて女房賜る。
この女、顔色好きによりご奉公に出、御側に侍りしに
今日粟飯原氏に給わる。
衣服50有、金拾両来る」
拝領妻である。
現代では、何かと思うでしょうが、当時は大変名誉とされていて
拝領する場合、羽織よりも着物、着物より肌着と、肌に近いほど
貴いとされていた。
ですから御寵愛の側室を下賜されたのは最高の栄誉であったのです。
それで日記には、宗八のことを記しているのはもう無い。
その後、幸福な人生を送ったのでしょうか?
ただ、殿様である継友は享保15年(1730)急逝、7代将軍の家継が
夭折後の将軍の後継の有力者とも云われた継友の死因は
麻疹であったという。
しかし、世間の風説では毒殺ではなかったかとも云う。
死後、藩士の一人が脱藩して吉宗の行列を狙撃したという噂が
流れた。
真偽は定かではない。
最後に、7代将軍の後継を決めたという落語「紀州」を一席
次の将軍を決める或る朝、登城する道すがら、尾州公は、鍛冶屋が
打つ槌の音が「天下取る、天下取る」と聞こえた。
そして城内で大久保加賀守が「万民の為、任官あってしかるべし」と
勧めたところ「我徳薄くして、任に非ず」と断った。
続いて紀州公に勧めると、吉宗公は「我徳薄くしてその任に非ず」と
断ったが、続けて「といえども万民の為に任官致すべし」と
請けた。
ガッカリした尾州公、城を出て鍛冶屋の前を通ると、やはり槌の音が
「天下取る」と聞こえる。
「紀州公は一旦受けたが、尾州公にお願いすると云って頼みに
来るだろう」と思い直す。
鍛冶屋は焼けた鉄を焼き入れの為に水に差しこむと「キシュー」
「あっ、予ではなかった」

