ここが江戸の境ですから、旅に出る人をここで見送った。
料理屋は沢山ありますから、送別の宴です。
呉服の白木屋では、里帰り(お登り)がありますが、旅立ちは当日、
店の者は途中まで見送り、上りの種類によって定められている
見送り人が品川まで同行。
品川観音前の村田屋で別れの盃をする。
初登りは店が費用を出します。
白木屋![](https://stat.ameba.jp/user_images/20141213/05/1480sn/a9/e1/j/t02200239_0800087013157249964.jpg?caw=800)
この時代、旅立ちには知人や友人が遠くまで見送り盛大な宴を
催すのが普通であった。
これを「デダチ」(出立?)と云い、帰りの宴を「さか迎え」という。
さか迎え
更に江戸時代の人は旅立ちの時、用心の為、足に膝の下の部分・
3里の所に灸をすえた。
蛸は足が8本だから3里に据えると24里になるという?
「旅立ちは 二度目のさらば 笠でする」
声が届かない距離になって、もう一度振り返り笠を高く上げて別れを
惜しんだ姿を詠んだものである。
当時は、旅は危険は伴うものであり、水杯をし別れを告げたのである。
品川
尾張の義直も又、秀忠病気と聞き、宗家の一大事と考え軍と江戸へ
急行するが、幕府は是を怪しみ品川までで江戸に入れなかったという
逸話が有ります。
品川は、朱引地外になります。
ですから、南国と云われるような廓が出来たのです。
品川遊女![](https://stat.ameba.jp/user_images/20141213/19/1480sn/b4/f5/j/t02200377_0800137013157785323.jpg?caw=800)
藩祖・頼宜は著書「大君言行録」の中で述べている。
「たとえ一門兄弟の家でも、むざと料理を食い湯茶を飲んではならぬ。
兄弟の仲でも毒を飼うという事もある。
兄弟といっても大体は異腹である
姉妹に害意は無くとも母の考えで毒殺を加えることが有る。
用心第一なり」
こういう時代であったのです。
それからは大分時代は落ち着いてきた頃の話です。
紀州徳川家55万石・8代藩主・徳川重倫
最も凶暴で暴君だった殿様。
歴代藩主の中で唯一大殿様と呼ばれた。
その証拠は、手打ちにした人の数、何と20数人!
「御心頗る猛だけしく・・」とある。
この乱行で幕府からはしばしば登城停止処分をされたという。
戦争中でもない平和な時代でこの殺人は凄まじい
登城する武士は、皆朝に水盃してから家を出たという。
仕事に行く毎に死を覚悟していたのだという。
ちなみに江戸時代、人を殺した時、「御定書」には、こう記されている。
「人を殺し候者、下手人」とある。
下手人とは、映画テレビでは容疑者のように扱っているがそうではなく
下手人とは、死刑の一つの形態で、単なる死罪ではなく
死罪では、刀のお試しや解剖(腑分け)にされたりする。
恥辱刑である。
下手人は、それは無い。
死罪より一段軽いのである。
解剖というのは幕末になって初めて行われました。
ですから、囚人は死後我が身がバラバラに切り刻まれるとあって、
かなり問題だと判り、騒動にもなったようです。
試し切り![](https://stat.ameba.jp/user_images/20141212/15/1480sn/79/7b/j/t02200121_0800043913156654684.jpg?caw=800)
ちなみに江戸時代の終わりころの話ですが、名主の記録である
「萬覚」によると、地方では、磔とか首切りなどが有ると聞くと、
5里四方から人が集まり黒山の人だかりとなり、そこでは、
食べ物や飲み物が売られていたという。
時代劇にある様な、刑を執行する役人に対しての反感よりも
ただ同じ殺人でも(御定書」では、「相手、不法の儀仕掛け、
是非なく刃傷に及び人を殺し候者、遠島」
是非なくとある様に、江戸時代でも正当防衛の考え方が有り
それが刑罰に反映され、罪が少し軽く「遠島」となるのである。
ただ、遠島も生還できるかどうかは定かではなく島の土となる
ケースも多かった。
更に、「御定書」では、「相手理不尽の仕方にて、
やむを得ず斬り殺し候においては中追放」とある。
追放![](https://stat.ameba.jp/user_images/20141212/15/1480sn/e3/77/j/t02200141_0800051413156655499.jpg?caw=800)
文章的には大差ないようだが、しかし、別項で「やむを得ず」と
入れることにより遠島よりも更に軽い「中追放」となる。
中追放は、江戸時代、追放も重・中・軽共に、江戸10里四方、
日本橋から5里以内、及び住居地・犯罪地の国がお構い地と
されていて、それ以外の国なら住むことは出来た。
町奉行が独断で下せた刑罰で、これ以上の刑は評定所や老中
が評議して全て将軍が承認する。
拷問も同様で勝手にしてはいけない。
但し、石を抱かせる石抱きが有るが、これは拷問ではないとされた。
今の感覚では拷問としか思えないが、当時は、公認されていた。
中追放は、江戸に来ることは出来ないかというと、そうではなくて、
旅姿の草鞋履きや脚絆などの格好で居る分には、偶々、
旅の途中、立ち寄ったという事で許されるのである。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20141212/15/1480sn/8b/bc/j/t02200145_0800052813156656643.jpg?caw=800)
ただ、殿様に歯向かうのは、正当防衛とは言えないので黙って
討たれるしかないのでしょうね。
中には有りました。
家老が再三諫言するが云う事を聞いて貰えず、あわや手打ちになる
ところを、逆に、殿様を殺害し自分も自決したケースが有る。
当然ながら、幕府も分っていたようだが、殿様を病死たとして扱い、
御家は存続となった。
大体、無理やり隠居、若しくは、毒を使っての毒飼いが使われたようで
殿様は目立った事をしないように、子作りに励んでいるのか
一番良かったようです。