高輪の大木戸

ここが江戸の境ですから、旅に出る人をここで見送った。

料理屋は沢山ありますから、送別の宴です。


こんな近くまで海が有りますから、潮干狩りには絶好でした

呉服の白木屋では、里帰り(お登り)がありますが、旅立ちは当日、

店の者は途中まで見送り、上りの種類によって定められている

見送り人が品川まで同行。

品川観音前の村田屋で別れの盃をする。

初登りは店が費用を出します。

 白木屋


この時代、旅立ちには知人や友人が遠くまで見送り盛大な宴を

催すのが普通であった。

これを「デダチ」(出立?)と云い、帰りの宴を「さか迎え」という。

 さか迎え


更に江戸時代の人は旅立ちの時、用心の為、足に膝の下の部分・

3里の所に灸をすえた。

蛸は足が8本だから3里に据えると24里になるという?

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旅立ちは 二度目のさらば 笠でする

声が届かない距離になって、もう一度振り返り笠を高く上げて別れを

惜しんだ姿を詠んだものである。

当時は、旅は危険は伴うものであり、水杯をし別れを告げたのである。


 芭蕉の旅立ちです

 品川
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尾張の義直も又、秀忠病気と聞き、宗家の一大事と考え軍と江戸へ

急行するが、幕府は是を怪しみ品川までで江戸に入れなかったという

逸話が有ります。


品川は、朱引地外になります。

ですから、南国と云われるような廓が出来たのです。

 品川遊女


藩祖・頼宜は著書「大君言行録」の中で述べている。

「たとえ一門兄弟の家でも、むざと料理を食い湯茶を飲んではならぬ。

兄弟の仲でも毒を飼うという事もある。

兄弟といっても大体は異腹である

姉妹に害意は無くとも母の考えで毒殺を加えることが有る。

用心第一なり」


こういう時代であったのです。


それからは大分時代は落ち着いてきた頃の話です。

紀州徳川家55万石・8代藩主・徳川重倫

最も凶暴で暴君だった殿様。

歴代藩主の中で唯一大殿様と呼ばれた。


その証拠は、手打ちにした人の数、何と20数人!

「御心頗る猛だけしく・・」とある。

この乱行で幕府からはしばしば登城停止処分をされたという。

戦争中でもない平和な時代でこの殺人は凄まじいビックリマーク

登城する武士は、皆朝に水盃してから家を出たという。

仕事に行く毎に死を覚悟していたのだという。


ちなみに江戸時代、人を殺した時、「御定書」には、こう記されている。

「人を殺し候者、下手人」とある。

下手人とは、映画テレビでは容疑者のように扱っているがそうではなく

下手人とは、死刑の一つの形態で、単なる死罪ではなく

死罪では、刀のお試しや解剖(腑分け)にされたりする。

恥辱刑である。

下手人は、それは無い。

死罪より一段軽いのである。


解剖というのは幕末になって初めて行われました。

ですから、囚人は死後我が身がバラバラに切り刻まれるとあって、

かなり問題だと判り、騒動にもなったようです。

試し切り


ちなみに江戸時代の終わりころの話ですが、名主の記録である

「萬覚」によると、地方では、磔とか首切りなどが有ると聞くと、

5里四方から人が集まり黒山の人だかりとなり、そこでは、

食べ物や飲み物が売られていたという。

時代劇にある様な、刑を執行する役人に対しての反感よりも

どうも楽しんでいた様子が記されている。


ただ同じ殺人でも(御定書」では、「相手、不法の儀仕掛け、

是非なく刃傷に及び人を殺し候者、遠島」

是非なくとある様に、江戸時代でも正当防衛の考え方が有り

それが刑罰に反映され、罪が少し軽く「遠島」となるのである。


ただ、遠島も生還できるかどうかは定かではなく島の土となる

ケースも多かった。


更に、「御定書」では、「相手理不尽の仕方にて、

やむを得ず斬り殺し候においては中追放」とある。

 追放


文章的には大差ないようだが、しかし、別項で「やむを得ず」と

入れることにより遠島よりも更に軽い「中追放」となる。

中追放は、江戸時代、追放も重・中・軽共に、江戸10里四方、

日本橋から5里以内、及び住居地・犯罪地の国がお構い地と

されていて、それ以外の国なら住むことは出来た。


町奉行が独断で下せた刑罰で、これ以上の刑は評定所や老中

が評議して全て将軍が承認する。

拷問も同様で勝手にしてはいけない。

但し、石を抱かせる石抱きが有るが、これは拷問ではないとされた。

今の感覚では拷問としか思えないが、当時は、公認されていた。


中追放は、江戸に来ることは出来ないかというと、そうではなくて、

旅姿の草鞋履きや脚絆などの格好で居る分には、偶々、

旅の途中、立ち寄ったという事で許されるのである。



ただ、殿様に歯向かうのは、正当防衛とは言えないので黙って

討たれるしかないのでしょうね。

中には有りました。

家老が再三諫言するが云う事を聞いて貰えず、あわや手打ちになる

ところを、逆に、殿様を殺害し自分も自決したケースが有る。


当然ながら、幕府も分っていたようだが、殿様を病死たとして扱い、

御家は存続となった。

大体、無理やり隠居、若しくは、毒を使っての毒飼いが使われたようで

殿様は目立った事をしないように、子作りに励んでいるのか

一番良かったようです。