紀州徳川家、尾張・水戸と並んでの御三家であるが、江戸初期の頃は、

御三家と雖も幕府の監視は厳しかった。

結城秀康の子・忠直でさえ越前67万石を改易され信州高遠に

流刑となり、そこで世を終わっている。


紀州も同じで2代秀忠は、家康の死後すぐにそれまで駿河遠江で

あった領地を遥か遠くの地である紀州に移した。

尾張と同様に秀忠に警戒されていて、その動向には注意を払われていた。


紀州藩祖の頼宜の生母は、お万の方、今の千葉県の里見一族

(里見八犬伝)で有名ですが、大多喜城主の娘であったそうです。


この方は、頼宜と水戸藩祖の頼房と2人産んでますが、大変な法華信者で

日遠上人に教えを受けてる間毎日南無妙法蓮華経とお題目を唱え、

その霊験からか2人産んだことに感謝をし、寺を建立したりした。


本遠寺本堂.JPG

大野山本遠寺である。

身延山久遠寺は、総本山だがこちらは別格本山として格は対等であると

された。

理由は、3代家光から260石の寄進を受けて御朱印地であったからだ。

久遠寺は、総本山にもかかわらず御朱印地を所有していなかったので

ある。

 代参


この影響か、法華信者は大奥に後期になっても勢力を持ち、

祈願をする為に代参をし「お祖師様」

今の、堀の内にある妙法寺などは

日帰りできるからと青梅街道の中野経由で詣でた。

従って、あっという間に大寺になったという。


 妙法寺

水飴を売っています

大事件も起きました。

有名な延命院事件というのが有りました、当時、

大奥は法華の信者が多く、祈願などの名目で寺社参詣を

していたが、実態は、僧侶との爛れた関係であり、

しかも、その寺の住職が将軍の愛妾(お美代の方)の実父であり、

お美代の方は、加賀前田家に嫁入した溶姫の母である。

後年、溶姫は明治になってすぐ亡くなったが、母の方は、その後も

長生きし、加賀藩もその待遇に頭を悩ました。


それは兎も角、養父も城江戸城内で特別待遇を受け大変な権力を

持っていたので、屋敷には知遇を得ようとする人が列をなしました。

ですから、実父が逮捕されたのは、大変な騒ぎとなり、

大奥女中も大勢捕まりました。

寺の住職である愛妾の実父も捕まり、牢に入れられたが、

直ぐ、亡くなりました。

これなどは口を塞ぐ典型的な手段で、公になることを恐れての

ものでだったのでしょう。

ここで登場したのが、脇坂家で、江戸っ子は坊主退治に実績のある

この方を評しました。

また出たか 坊主びっくり 貂の皮」

牢死は、後に記してますが旗本・御家人がもし牢に繋がるような事態に

なった時もしばしば有りました。

御家存続の為に自死を選ばさせるのです。

そうであれば家は存続できます。

 身延山


勿論、本山の身延山にも詣でる信者の数は多く門前町の旅籠屋

宿坊は連日参詣客で溢れた。


是は山王権現もそうだが(4代家綱はここに祈願して誕生したという

由来がある)それまでの実績が大きく左右するので、大奥中臈達は、

何としても上様のお種をと、切に願うものからである。

これは、以前、自分の配下の中臈の男子懐妊を願って、

祈願の文を御願した事でも判る。

 お百度参り


天保12年丑年6月28日再興、御施主50歳女子祈祷坪内氏

西御丸老女八重島、四天王十二神、御男子大願成就」

この祈願の御札は、大奥の老女八重島が当時十七歳であり

世子として西丸で近衛右大将であった家定の子供・男子誕生を

祈願したお札である。

家定の生母・本寿院の世話親である八重島は、

自分ら一統の力の拡大・充実を図るために、

自分の部屋子でもあった本寿院の子・家定の子・男子誕生を

強く願っていたのです。


 本寿院乗物


落語の噺になります。

お題目というのは大声で唱えます。

ですから、大変煩いもので、葬儀の時などは、真宗のお経の方が

しんみりとしますが、法華の場合はそうではないので、

通夜の時、亡くなった方が棺から起き上がり、煩くて往生できない。

少し静かにしてくれと頼むという、落ちもあるくらいです。