大沢家の禄高は3500石で高家の筆頭は畠山家で5000石
少ないのが品川家で300石でした。
それ以外に、高家の役高が1500石ありました。
領地は、遠江の堀江で家臣は120人居ました。
大沢家は、幕末、大政奉還の時には辞表を御所へ持っていきました。
高家は、従4位下侍従ですから御所に昇殿できるからです。
3代家光の世、幕府と朝廷の間が諸問題で緊迫した時が有り。
それを融和させるために家光の乳母の春日が御所に行きました。
その際、無位無官では昇殿出来ないので、局という位を与えて
昇殿できる様になって、それ以降春日局と呼ばれた。
元旦諸侯登城
高家の仕事で一番重要な仕事は、正月に諸侯登城するが
その際、将軍から御流れを頂いて、それを御三家、御三卿、
四品以上、国持ち大名に給仕をする事でした。
それ以下の大名には、御小姓の役目でした。
この御給仕の役目は大変役徳が有りました。
元日と2日の御流れ頂戴の式には、御三家には土器を三方に乗せて
出しますが、以下の大名方には、長柄の口に盃をのせて出します。
ですから、酒を注ぐ時に大名が盃を落したり割ったりしたら
大変な落ち度になるので失敗することが出来ません。
ですから大名家では前以て、高家の名前を聞いて、
その高家の家老や用人に対して領国の倒産品やお土産を届けて
歓心をかう事が重要でした。
その式は大変面倒なものでしたので暮の20日位から稽古を
しました。
装束は直垂で、普段は継裃でした。
詰所は、譜代大名と同じの雁の間詰めです。
将軍への元日の年賀については、御殿医の娘・みねが述べています。
「父から聞いたところでは、登城してみんな揃って
年賀を申し上げますと、将軍は、ただ一言「めでとう」
とおっしゃるきり、その折、御台様の召されたお袴が
黒のように見受られ、どういう事かと思われたが、
緋も染めて染めてほんとに染め抜くと
黒いようになるものだそうで、
やっぱり緋のお袴でだったと父が申したことも覚えています。
それから、皆は一様に紅白の餅を押し頂き引き下がるのですが、
それはおてがちんというていました。」
(大奥女中の時にも出て来た言葉です。餅の事をカチンといいました)
高家は、日常は、高家と同じ雁の間詰めの奏者番と一緒に
老中の登城や退去に送迎する。
又、老中のお廻りの時は御機嫌を伺いました
老中の御回りは、城中では中奥の役部屋を見廻ります。
順序も決まっていました。
老中登城
又、大奥でもありました。
月に1回、表の留守居役(もちろん旗本ですから男です)
が大奥を巡回するが、その時にも、御下男が先に立ち、
「おまわり、おまわり」といい、廊下を歩きます。
部屋の中に入る事はありません。
資料によると、長局見廻りは、本丸が毎月25日、西丸は27日、
二の丸は毎月3,13,23に行われたという。
高家の場合は、非常に格式が高いので、もし、往来の途中で
御三家に出会っても駕籠のままで降りません。
若し降りると、御3家もまた下りなければならいからです。
普通の大名の場合は、御三家の行列に出会うと乗物から
下りて挨拶しなければならないので、それを嫌がって、行列の
先に見張りを出して偵察し、出会うようなら避けてやり過ごしました。
御3家もまた、先に伊賀者などを置いて見張らせました。
ですから、高家というのが如何に位が高いものだったか判りますね。
さて高家の役目というと、一番思い浮かぶのが将軍家代参である。
何故なら、伊勢と日光の代参だけだが、帰ると復命の為、
将軍家ですら下座に坐り平伏させるからでした。
その将軍家すら下座に坐らせた高家は明治になると、運命は
激変するのでした。
代参として道中は、伝馬の御朱印という四角の印を押したものが有る。
慶長6年に定められた制度は「伝馬朱印状」と呼ばれる。
朱印を押した文書持参の者に限り伝馬を提供するというものであった。
その数は、当初36人で、人足は無かったが、
後に人足も付き、人数も100人になった。
(中山道は、その半分の50人)
その他の3街道はさらにその半分です。
大沢家が言うには、人足数は限りはなかったと述べている。
伝馬の負担者は、街道の屋敷持ちでありその代りに税金を
免除されました。
これはのちに宿全体の負担となり、宿全体で何千坪の税金も免除された、
荷物の重さは、一駄40貫、人足の荷物の重さは5貫目、
長持の重さが30貫ならば6人掛かり、軽ければ人数を減らす。
その賃銭は道中奉行が決めた。
道中奉行は大目付と勘定奉行から各一名選ばれた。
道中は、「下に、下に」と大変威張ったものでした。
御名代として行く時は、必ず将軍に拝謁し、帰ると登城し
復命する。
装束は熨斗目麻裃で、閣老の案内で脱剣し、御座の間の
ご上段の間で復命する。
その口上は「何日何時天気よく滞りなく相済む」というものでした。
伊勢と日光の他は、閣老が披露します。
ただし、その朱印状の持ち主は、公家衆、諸門跡、
将軍の命で行っている者、茶を運ぶ茶坊主などである。
これはお茶壺道中が有名でその横暴さに歌も作られるくらい
嫌われた。
同じようなが例幣使の行列でした。
現代も例幣使街道という名が残っています。
例幣使は「天皇下賜の長さ四尺の金の御幣を日光東照宮に
納めるもので「例幣使は朝命を奉じ、金幣を日光に納める役にして、
通行の際は暴威を振い金銭を強要」「軽井沢町誌」より。







