有名なのでは「鳥金」
今日借りた金を、翌日烏が鳴くまでに返さねばならない。
これは、客が来れば稼ぎが出来る芝居茶屋や引手茶屋などの
水商売の人が多かった。
「百一文」
朝100文借りて、夕に101文返す。
これは行商人に多く利用された。
其の日の売り上げから返すのである。
「月六斎」
行商人に利用された。
これは更に高利で年利24割である。
月に六日返せばいいので、1回あたりなら、
それ程負担に感じない所がミソである。
大口ですと「死一倍」
親の遺産を充てにして、道楽息子が千両の借金をする時に、
倍額の2千両の証文を入れさせる。
親の死を充てにするのです。
座頭金はもっと高利でした。
3割であったようです。
しかも、天引きして渡されるのです。
金貸しは、盲人保護の観点から、利率に制限は無く高利であった。
一般の利率は、幕府が定めた利率は1割2分であり、
これは幕府お抱えの会所で借りることが出来る人だけであった。
その他の人は、町の金融に頼らざるを得なかった。
借金をする場合は、最初に利子の低い処から借ります。
御庭番の川村家でも、よく会所から金を借りていました。
冠婚葬祭や家の新改築など諸々です。
座頭金は官金であるという立場であったので、貸す側には
強い立場が取られ、町人相手なら強く出る武家でも、
座頭相手では弱くなり、返さない場合は、弟子を引き連れて
屋敷に押し寄せて騒ぐなどしたために、返却するケースが
多かった。
座頭の上の位の検校はもっと悪質で、もし、期日までに
返済できない時は貸金は継続するが、切替日の利息を
2倍にするのです。
これによってさらに一層高い金利で縛られるのである。
質屋も有ります。
現代の様に明るい照明の付いたところではありませんでした。
格子などで光線を加減して、昼なお暗くし、しかも、
質屋によっては客との間を太い格子で仕切っている所も
ありました。
質に出す際は、請け人が必要でした。保証人です。
請人の判を持って本人が質に入れるのは「一人両判」といい
禁止でした。
もし、犯罪に関係していた場合、その時は質屋も罪に問われます。
又、質に入れるのを「殺す」と云いました。
「殺された奴 8月目に化けて出る」
これは、当時は8ヶ月が流質期限でした。
刀や脇差は、もう少し長く1年でした。。
先祖伝来の槍や刀を質に入れても泰平の世では
高くは取ってくれません。
利息は一律ではなく、又、暦によっても違うので、
店先には大小の暦の表示が有りました。
100文借りると月に4文くらいが相場であったようです。
例えば火災などで焼けてしまう事もありますが、その場合は、
客は返さなくても良いが、逆に、質種が黴をはえたり、
鼠にかじられたりしても質屋には罪がないとされた。
質屋も断る品物も有りました。
葵の紋の入っている物や大名や有名寺社の紋が
入っている物です。
幕府は目の不自由な人達に特権を与えました。
盲人には、彼等だけの官位=盲官があり、亰の公家の久我家の
斡旋で金4両を検校に納めると、「○○一」もしくは「○○城」を
与えて「座頭」になれ、最初の官位を貰えた。
それまでは、「○○市」と名乗った。
ですから、映画「座頭市」というのは、果たして名前であったのか
どうか判らない?
ともあれ盲人は金によって昇進できた。
ランクを並べると座頭→勾当→別当→権検校→正検校→総検校
正検校になるには700両、総検校になるには千両が必要であった。
盲人の職業としては、按摩・鍼・灸・琴・三弦そして金貸しであった。
更に悪質だったのは、将軍家の菩提寺である増上寺や寛永寺
及びその支院でした。
大名を相手の大名貸でした。
徳川家の菩提寺である増上寺や寛永寺は広大な所領と
財政基盤を持って運営されていた。
最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、
子院は36か院、そして、多数学寮を持ち、多くの学僧が学んでいた。
しかし、中期以降苦しくなり、後期には幕府はその救済策として、
500万両を与え、それで金貸しを勧めたのです。
大名相手です。
バックに幕府がいますから、豪商相手のように
踏み倒しの手は使えません。
これは、財政が別に困っていない大名相手にも、強制的に貸しました。
加賀藩なども、付き合いでやむなく借りています。
しかも、貸す金額は寛永寺が勝手に大名の格に応じて
決めるのです。
現代の銀行でもやらなかったことでしょう。
では、どうして断る事が出来なかったというと、
寛永寺や増上寺は将軍の霊廟が有ります。
命日には必ず将軍の参詣があり、諸大名はお供をして
両寺に行きます。
その時、着替えたり休憩する所が無いと困ります。
その休憩所を寺の宿坊を借りて着替えを休憩をするのです。
当然ながら契約をして借りますので、嫌がらせで貸して貰えない
場合は、お供の藩主一同は行き場が無くなるのです。
そうした弱みに付け込んでの貸し方でした。
期限は1年、毎年暮れの12月1日から10日の間に
返済しなければならない。
以前、紹介しましたが、返せない大名は、寛永寺の下の坂に、
利子だけを貸す所があり、そこで見せ金として、
元金と返済用の利子を借りて返すのです。
年の暮れになると、毎年、千両箱を積んだ大八車が
朝から晩まで坂を行ったり来たりしたといいます。
しかも、もし返しても、又、借りなければならないのです。
従って、両寺には大名に多額の融資が有った訳であり、幕末に
彰義隊が寛永寺に陣を構え寛永寺も積極的に応援したのは
もし幕府が倒れた場合、貸金が回収できない事もあったでしょう。
結局、貸倒れになりました。
明治になって、割合スムーズに廃藩置県が成立しましたが、
既に大名の財政は破綻をしてしまい、逆にこれを利用しようとする
ものもあったのではないかと思われる。
以前、紹介しましたが、金貸しで芝・増上寺が絡んだ事件としては、
盛岡藩南部家の件が有ります。
どの大名も財政が悪化して、遣り繰りも何も出来ない状態で
あった頃です。
南部家もあちこちから借金していまして、
増上寺からも2千両ありました。
そういう中で、享保13年4月、藩主が江戸登城する際、
その返済が遅れていたのでしょう。増上寺の僧・80人が
屋敷の門前で藩主に対して借金の返済を直訴、藩主は
その無礼な行為を怒り、登城し、老中・寺社奉行に僧侶らの
無礼な行為を訴えた。
幕府評定所は、この問題を取り上げ、寺社の貸金を不当として
不法の催促を禁止している。
此の頃は、寛永寺もそうですが大名相手に無理に融資を強制し
やむなく大名も必要のない金を借りるケースが多かった








