岩松家は、120石とはいえ知行地を持ってます。
領主様ですから司法権も持ってます。
時には揉め事の仲裁にも入ります。
「上州名物 かかあ天下と空っ風」と世に云います。
自分ではありません。
これは、元々養蚕や生糸の生産が盛んで各家で絹が織られ、
家には現金がどっと入ってくる。
その稼ぎ手が女達なので、必然的に鼻息が強いからだという。
中には凄まじい夫婦喧嘩で近所を騒がせて、挙句の果てに詫び証文を
書かせられたという女房もいる。
謝り状
「あやまり証のこと」
「わたくし事、まいまい夫とけんか致し、ごきんじょをさわがせ、
ちゅうさいにあずかりおそれいりまいらせ候。
以後は決して夫の金玉をとり(つかみ)申すまじく候。
よってあやまり証文くだんのごとし」
ごきんじょ様方へ
こうした喧嘩っ早い女房達が蚕を養蚕をそっちのけにして料亭で
博奕に耽っていた所を捕まった事もある。
それだけに、女房の目に余る行状に三行半に
「私、女房事重ね重ねの我儘に付き・・」と悲鳴を上げている亭主もいる。
こうした中、姦通事件が有り、それに対する村の制裁が有り面白い。
姦通は、幕府の「御定書」では「密通せる妻、及び密通せる男 死罪」
とある。
こうした姦通に対しては、庶民の間では、事件にせずに内済とし
首代として7両2分を出す事で解決している。
ちなみに「御定書」では、喧嘩などをして相手のけがをさせた場合なども
記している。
相手が怪我をした場合は銀1枚(43匁)金1両の3分の2です。
更に、相手が生業に差し障りがあるような場合は、何と、中追放。
これは、江戸所払いの他に、家屋敷家財没収です。
そして、相手の後遺が残った場合、これは遠島です。
江戸時代は、実に罰則が厳しいです。
これが為に、江戸などでも100万都市であるにかかわらず、警察力が
内済料の首代というのは、元々武家では首を斬るとその供養料として、
高野山に大判1枚収めた事によるものである。
しかし、大判というのは市中には出回っていないもので、主に武家社会で
儀式用に使用されていて、もし、大判1枚を包もうとすると、両替屋などに
行き、買い求めるのである。
そして、その価格は変動相場で一定ではなく、25から27両くらいと
高価であった。
しかし、市中の実勢価格では、大判の価値は7両2分とされ、
後には5両に値下げとなったが、そのくらいの価値として
見ていたのである。
又、大判は大名が家督相続をしての時に多く使われる。
将軍を始めとして老中や御側御用にも贈られるのである。
目安としては、干鯛が1箱、太刀1振り、黄金2枚(大判)が相場
である。
ただ、何しろ贈るべき人数が多いので御側衆だけでも8人、
御側衆といっても5千石取りのご大身です。
町奉行が3千石ですから、如何に高いかが判ります。
この中から、御側御用取次が一人選ばれて、将軍の最側近として
これは非常に権勢が有りまして、老中が何か言ってきても
それが合わないと判断すると「貴方が言いなさい」と断るくらい
権限を持っていました。
御側衆に贈られる金は、120両、
役職によって当然金額が違うのは、以前。大和郡山の
柳沢家の贈答リストを紹介したように、城の玄関番から始り
勿論大奥まで配るのですから、家督を継ぐというのは千両位は
みないといけなかったのかもしれない。
それは兎も角、姦通事件です。
重ねて4つと云われますが、これも現場を押さえることが肝要です。
現代も同じですか?
しかも本人だけでは駄目で、第3者が必要です。
長屋の住民ですと大家が普通です。
但し、ただでは動きません。足代を出さないといけないのです。
大体300文が相場であったようです。
一日の日当分です。
鰻が食えます。
しかも寝盗られたのでは踏んだり蹴ったりですね。
鰻を食う女
閑話休題、
この村の姦夫へ(かなり古いですね)の制裁は違いました。
でも、この文字が意味するものは深いですね。
言葉の響きが有って「不倫」などより含蓄があります。
それは兎も角として事実が判明すると村人挙って姦夫の家に
殺到して10日間吞み放題、食い放題の乱痴気騒ぎを起こすのです。
その結果の費用、締めて5両3分2朱と銭206文だと
詫び帳に添付されていた支払い控えに記されている。
詫び状
「相申す一札の事」
「当月一四日夜、貴殿女房おまつ殿と途中行き違いし咄いたし居候処を
貴殿に見咎に預かり、馴合いにも是有るやに推察を請け
夜分の儀にて申し訳これなく彼是差し縺れ・・・・・・」
この詫び状を見ると、村人が殺到して飲めや歌えや大宴会です。
何故か値下げになった間男代と同額であるのは何故でしょうか?
盛大なお祭りもあります
「世良田祇園祭り」
亰の八坂神社の御霊会が旧暦の6月19日を中心として行われた。
秩父夜祭、神田明神祭りと並んで関東三大祭りの1つです。
八坂神社
祭神は牛頭天王と日本のスサノヲミコト、五穀豊穣、悪疫退散
商売繁盛の神です。
ただ、世良田祇園にはもう一つありました。
それは、南北朝の昔、新田世良田党は足利軍と戦うもあえなく敗北し
尾張の津島に走り津島宮となり、そしてその分霊を世良田に勧請し
「新田天王」と称した。
この世良田の祭礼には「碓氷より東、舘林より西、南は荒川に限り
北は足尾山中に及び」
世良田の周り7,8里は参詣人で溢れたという。
中でも「世良田の御輿を担ぐと時化に逢わぬ」とされていて
利根川往来の屈強のふんどし姿で来る船頭たちでした。
それに倉賀野河岸から25人乗りの船、4,50艘に参詣客を
積んで下ろした後、駆けつけてくる船頭たち30人。
100人からの担ぎ手が重いとされた世良田の御輿を揉みに揉んで
担ぐのである。
祭神のスサノヲは、荒ぶる神ですから、御輿が荒れ狂う程喜び
息を入れる為に御輿を台の上に置くと、その瞬間を待っていた
「のぼりども」が我先に御輿の上に上る。
群がる他の男を蹴飛ばし突き飛ばし、真っ先に上った者は
観衆のやんやの喝采を受ける。
夏祭りの圧巻は、何といっても牛蒡色の夕闇が立ち込めるころから
夜が白むまで繰り広げられる11台の大屋台の屋台囃子の競演である。
掛け声が掛かり引き出された大屋台がゆるゆると往還を
進んで行くのである。



