酒番付

1位の大関は、剣菱。

戸時代は横綱はありません。

今も残る酒が多い

元禄10年(1697)上方から江戸へ送られた酒は、64万樽。

この中でも伊丹の酒は、酒造量1万6千300石、酒造家36軒

伊丹の酒というと、将軍家の御用酒でもある「剣菱」「老松」「男山」

などである。

  新酒番船入津


これら上々諸白は、文左衛門の岐阜出張にも登場している。

「岐阜酒良し、片白、1升8合にて200文、生諸白1升9合が304文」

幕末の江戸の価格ですと、上酒で1升250文、単純にいえば

倍くらい値段が上がっているのでしょうか?


ただ、江戸時代の安い酒は、それぞれの酒屋で水を混ぜてブレンドして

販売してますので、判りにくいですね。

  居酒屋

天井には、8間と呼ばれた照明器具、あまり明るくは無いですけどね。

でも、有る家は少なかったでしょう。

吉原には有りました。

座敷に腰掛けて、左大臣座りと云われた、片足を上げての座り方。

間違えてもテーブルなど有りません。


さて文左衛門の岐阜出張です。

もう名古屋を出る時に、すでに2斗樽を持参の旅である。

先ず、清州で休憩の時酒を汁椀で1杯、中椀で1杯、途中一宮で

汁椀で1杯、中椀で2杯、岐阜に着いた頃は既に2斗樽が空である。


しかし、心配ご無用、岐阜奉行のからの差入れの酒が2斗ありました。

これを飲みながら城山を見物し、夜は夜で長良川で鵜飼の見物である。


翌朝、ご飯時,椀で4杯、胸につかえて吐いてします。

それにめげる文左衛門ではありません、帰りにも一宮で1杯というように

何も変わらず人生最後の旅を終わったのです。


この日のメニュー

刺身(指身)、すすき、たです、煎り酒、九年母、山葵、すいせんのくり

汁、塩鴨、香の物、筒干し、竹の子、梅干し、くしこ、焼鮎、焼物

蒲鉾、しまえび、


酒の他に

吸物、膾、生姜茸、麩、煮しめ、塩辛、鮓、吸物、すすきのわた、水もの

くり、なすひしみ、大根花、取肴、からすみ、小梅、かずのこ、いろいろ


しかし、見事なほど花嫁の事は出てきません。

でも、翌年、子供誕生、女子です。「こん」と命名。

結婚から誕生まで


家督相続です。

当然ながら父が隠居しませんと家畜は継げません。

いわゆる「部屋住み」の状態です。

最も重要なのは、殿様にお目見えしないといけない事です。

書類だけではいけません。

お目見して絶対服従を示すのが御目見えであり、儀式です。

これは大名と雖も同じで浅野侯も将軍との初御目見えの時は

大変緊張し、終わるとホッとしたと云ってます。

やっと、家を継ぐことが出来て殿様と呼ばれるのです。


将軍との初御目見えの場合は、早めに登城し決められた詰所で待機

更に坊主部屋に移って待機します。

そして、予定の全員が揃ったところで、第1回目の習礼(リハーサル)です。

これは内々の稽古です。

初御目見えの進行としては、

1、公方の前に出る「繰り出しの場

2、正式に目通りする「名披露の場」、

3、お声を掛けて頂く「上意御取合


御取合というのは、テレビ映画では、殿様と直接話をしてますが、

実際は、そんな事はあり得ません。

必ず、御側に居る人を通じての会話になります。

御側の人に話しかける方式です。

それが御取合といいます。


2回目の習礼。

今回は奏者番が進行役を務めます。

奏者番は将軍謁見の際の名を披露する役です。

老中を目指すエリートコースの一つです。

仕事の内容は、公式の儀式の時に、大名や旗本の名を呼び上げて

披露する事で、何百人もいる人の名を呼ぶのです。

名前など間違えたら大変で、吉宗の時に、一度そういう事件が

起り解任された。


名前とは、「守名」です。

城中では、同格なら守名で呼び合います。


ここでは、

1、公方の前に出る「繰り出しの場」

2、正式に目通りする「名披露の場」、

それぞれ無事に終了し、坊主部屋に移動し昼食。

杉折弁当、菓子、煮しめ。付添いの大名、勿論、坊主にも進呈します。

食い物の恨みは恐ろしいですから。


ここで着替えもします。

持参してきた裃に着替えます。



続いて本番の習礼、最後の習礼です。

正規の場所である松の廊下で襖を後ろにして座る。

御目付の人数確認がある。


正規の場所である松の廊下で襖を後ろにして座る。

御目付の人数確認がある。

その後、再び、坊主部屋に戻る。

  松の廊下

実際の襖の絵柄とは違います。


 実際の襖の絵柄

そしてお呼びがかかり、本番です。

これは簡単なものです。

白書院などの将軍の遥か彼方の方に坐り、名を呼び上げられる。

ずっと平伏したままですから、将軍の顔など

見る余裕もないし見えません。

ともあれ、御目見えが済めば無事家督相続です。


 白書院

テレビ映画などでは、これだけの奥行の部屋は作れないので

いつも殿様の顔が直ぐ真近ですが、実際は遥か遠くなので

顔など見えません。


尾張藩の場合は、文左衛門は100石取りという尾張藩でも

下級武士ですから、団体で一括御目見えです。


幕府ですと、旗本なら寄合に入る資格の3千石以上が単独で

将軍に拝謁できる。

大身旗本です。

落語家の5代目の志ん生師匠の家のようにです。

それ以下ですと、やはり、団体で一括で行われる。

下級旗本だと、廊下に坐っていて、将軍が通りかかるという事が

御目見えになる。

その上のクラスだと、名前を呼ばれる。

細かく差別するのが、統治の方法で実に巧みに制御していました。

 旗本登城


ところが、その初御目見えが上手く行かないのです。

結果から云うと、相続を許すという切紙(許可証)が来てから

ナント8か月後です。

お役所仕事と云いますのが、のんびりしてます。