しかし、絶倫と色情狂なら、この方を置いては語れません。
当時の藩主・吉通の生母である本寿院である。
この方は以前にも紹介してるが、日記でも詳しく取り上げてるので
再度紹介します。
当時の4代目藩主・吉通は11歳で藩主の座に就き、名君で知られ、
将軍綱吉の後継にも挙げられたというが、実際は、名君ではなく
日記でも厳しく非難されている。
世間では「水戸に君あり、紀伊に臣あり、尾張に大根あり」
と云われるまでに酷評されるのである。
水戸は、徳川光圀・黄門様です。
紀州のは、付家老の事です。
しかし、この時代、主君を批判するというのは、
それだけでも重罪でしたから
文左衛門の死後、この日記が秘匿されたのも頷ける。
江戸時代、名君とか見るべき実積を上げたという殿様は、殆ど、
養子か或いは庶腹の子として生まれ、宛がい扶持で育てられて、
上の子が亡くなって藩主に付いた殿様ですね。
やはり、幼児に受けた苦労が人間として重なり、それが反映された
のではないかと思われる。
江戸時代は、乳児死亡率が異常に高いので、5,6番目であっても
後継の有資格者なのです。
養子の名門?といえば、高須松平家を連想します。
尾張徳川家2代目藩主・光友の3男が藩祖ですが、
もし、宗家の尾張藩主に欠が生じた時は、補完する役目を持ち、
実際に8代目藩主はここから出ている。
そして、最も有名なのは幕末の事でした。
当主には子が多かった為に望まれて養子に行ってます。
やはり血筋が好いです。
江戸時代は、血統が重視されています。
まして、神君の系統で譜代筆頭の尾張家ですから、引く手数多でしょう。
今の競馬界と同じですね。
次男は尾張藩第14代藩主徳川慶勝、三男は石見浜田藩主松平武成、
五男は高須藩第11代藩主から尾張藩第15代藩主、
御三卿一橋家当主となった
(名乗りも松平義比→徳川茂徳→徳川茂栄と変遷)。
七男が会津藩主松平容保で、九男が桑名藩主松平定敬と幕末に
活躍した藩主となった。
十男の義勇は高須藩第13代藩主となっている。
松平定敬、松平容保、徳川茂徳、慶勝
この時代に少し遅れて登場しますが、尾張藩主の宗春、
徹底して8代吉宗に対抗しました。
この方は、実は3代藩主の20番目の子なのです。
宗春着用
普通、20番目ではとても順番が回ってくるとは有りえないですが、
でも、幸運が重なっての登場です。
ところが今登場している4代吉通、5代、6代藩主が相次いで亡くなり
尾張藩主に就いたのです。
これは、ライバルの吉宗も同じで、紀州藩主が4,5,6代が亡くなって
藩主就任、そして将軍ですから、非常に酷似してます。
ですから、幼い将軍の6代家継が僅か8才で亡くなると、次期将軍
として候補に上げられた。
しかし、実際に将軍に成ったのは吉宗であり、ここから両雄の
並び立たない関係が始まったのです。
吉宗は徹底した倹約令をだし享保の改革を進めるのに対し、
宗春は、全く逆の開放政策を打ちだし名古屋を華やかなものにしました。
宗春の本「温知政要」では、自分の考え方を披露している。
「倹約するばかりでは、慈悲の心薄くないりて庶民の心苦しめる」
「国に諸令多きは恥じなり。諸令多ければ破る者多し。
法令多ければ人の心勇なく、せばくいじけ、道を歩むにも
後先を見渡す」
「万の物、何によらずしてそれぞれの能有り、先ず、材木なら松には
松の用あり、檜には檜の用あり」
これは吉宗の政策とは全く真逆のものでした。
宗春の絵「柘榴に梨」
享保16年(1731)江戸を立って名古屋へと帰る宗春の行列は、
華やかな行列は街道の人の目を驚かせました。
何故なら、余は吉宗の徹底した倹約令で、幕府は経費を削減しようと計り
大奥のリストラを実施し、経費を3分の2にし、大名に対しても経費の削減を
命じ、「いかなる大身であっても2汁6采を越えるべからず。お香物も
右の数に入るべき」とし、衣服は絹を廃し木綿に、食を減じて度重なる
禁止令を出していた頃でした。
其れなのに行列は、伊達衣裳を着させお祭りの時のような花笠を被らせ
自分は鼈甲で作らせた唐人笠をかぶり、馬に乗って箱根の坂を
上り下りしていったのです。
箱根松並木
しかも、名古屋では「遊芸音曲は勝手たるべきこと。
門の出入りも昼夜の別無し。
初代の義直が禁止していた芝居興行も自由、
遊郭も設けよ」として大々的な開放策を取ったのです。
宗春は大変派手な派手がかった性格であったようです。
社寺参詣の時は、猩々緋の装束を身にまとい唐人笠をかぶり、
近江から買い入れた白牛に乗って行くのが常であった。
或る時は、菩提寺に行くのに紅色の羽織に緋縮緬のくくり頭巾を被り
屋根の無い駕籠に乗り、帰りには袴も羽織も脱ぎ捨てて
白絹の着流しとなり、前帯を締め、2間ばかりの煙草の先を茶道坊主に
担がせて煙草を吸いながら道を歩いたという
名古屋は「芸どころ」と呼ばれるような地域であり、宗春も好きであった
ようだが、まるで歌舞伎もどきのようでもあった。
この開放策によって、名古屋は空前の繁栄に湧きました。
「名古屋の繁華で興(亰)が冷めた」と京の賑わいを越えたと云われた。
その頃を風刺した落書きでは、
「天下町人に似たり、尾州公方に似たり、水戸武士に似たり、
紀州乞食に似たり」
しかし、江戸の吉宗の目は光っていました。
この頃、文左衛門の日記でも「商人姿に扮装した紀州の間者が
尾張屋敷を偵察に来た」というのがあり、お互いに緊張した関係であった
事が判る。
この頃、吉宗から派遣された使者に対して宗春が言うには
「天下の諸大名が行ってる倹約は口先だけのもであり、その証拠に
本心から倹約してるのであれば藩庫に金穀が充満している。
そうでないのは、建前だけのものであるからで、百姓町人から
取り上げるだけ取上げても手元には残らない。
尾張では、法度が少ないので罪人も少ない、盗人の心配もない。
火事の恐れも無い町人には余計な税も掛けず年貢も僅かである。
藩札も不要で百姓町人の金銀を借りる必要もない。
全て自由で上下挙って楽しみ賑わっている」
この報告を受けて吉宗の腹は煮えくり返った事でしょう。
名古屋では段々と行き過ぎた面も多く見られ、それをコントロールできなくなり、
崩壊していく、それを待っていた吉宗は宗春を隠居させ、
後に亡くなった後も、墓に金網を掛けられた。
金網が除けられ従2位大納言が追贈されたのは、
何と、死後76年経過した天保11年(1840)の事でした。
宗治の死後は、藩財政は窮乏し、時季藩主は徹底した緊縮財政を
行った。
それが為に、江戸の戸山に有った下屋敷を戸山荘として、
現代の公園のようにしたものだが、大名式庭園の典型です。
ここへの投資も困難になり、一時廃れ、その後、又、元に戻ったが
それがかなり後の話です。
戸山荘というと、今の新宿の大久保にあった下屋敷で
13万坪の大きさで中には山水や滝、町まで作った公園のような
ものでした。
後に、11代家斉も何回か訪れ、12代家慶も行っている。
戸山荘藩主の居間

