豪商といえば、東が紀文、奈良茂なら西は淀屋、糸屋です。

淀屋は大坂夏の陣で大儲けをし「おどり屋敷を四方に構え、

庭に唐、天竺の木を植え数奇を凝らした座敷は四方にピードロの

障子を立て、天井もピードロを張りつめ水をたたえて金魚を放ち

公方様も及ぶまいと噂された。


ピードロとは硝子の事で、当時オランダから大坂の豪商・淀屋では、

ピードロの障子を付けて、 天井もピードロを張りつめて、

清水をたたえ、金魚・銀魚を放っていたという。


輸入していたのですから、当然、高いものであったでしょう。

現存する物では、金沢藩加賀家の成巽閣のものがある。

文久3年(1863)のものである。


奥女中東本願寺代参

着物の柄が金魚です。

流行であったのでしょうか

帽子を被っているが、これは、御殿女中や

この当時の金魚は高価なものであり、

1匹数十万円したと云われてます。


一般化するのは宝暦年間(1751~1764年)縁日にも露店が登場、

金魚売りもいた。


きんぎょーえ、きんぎょ」うお座

夏の風物詩として、この売り声が路地で聞かれるようになったのは、

11代家斉の頃、化政年間の頃と云われている。


4代家綱の世に、江戸の下谷に「しんちゅう屋」という金魚屋が

始まりで、金魚が川柳などに登場したのも寛文7年(1667)

おどれるや 狂言金魚 秋の水

  金魚屋


そして、5代綱吉の世、元禄を迎えると隆盛を極め、

値段は高値で売られた。

井原西鶴の「西鶴置土産」にも紹介されている。

中には尺以上のが居て、金魚1匹5両とか7両で取引されている。

これは、和金であろうと思われる。


夏の涼味の対象として、何時しか江戸の夏の風物詩となっていった。

庶民的な文芸の俳句、川柳、狂歌、錦絵などに登場。

餌は麩やボウフラ。

中期以降、高級品種が入ってくる。

ランチュウ、リュウキン、オランダシシガシラなど。

出目金や錦鯉などは、勿論、明治以降なので居ない。



  


糸屋もまた、茶道に使う茶入れ1個を求める為に大八車に

銀300貫を載せて市中を練るように運ばせた。

銀300貫は米に換算すると7100石。

しかも、その茶入れは300貫ではなく1万両であったという。

銀600貫、米にすると14200石、長州毛利家の年間総収入の

1253貫の半分にあたる。

1個の茶入れの値段がである



吉良上野介


忠臣蔵の浅野内匠と吉良上野との問題は色々と取沙汰されている。

しかし、単純に浅野内匠は吝嗇であったようです。

例えば、参勤交代で大名は本陣宿を使用するが、奇しくも、

同じ旅籠の東海道田中家本陣を少し年が違うが利用している。

  田中家本陣


元禄9年3月19日  上野介様

15人泊り  宿 43文

祝儀  1両2分到来


元禄11年8月7日  浅野様

祝儀 金2分


元禄12年7月4日 浅野様

21人、馬1匹 宿賃 4貫300文

祝儀 銀2枚


元禄12年7月13日  吉良様

7人泊り 宿賃 1貫

祝儀 1分


元禄13年3月28日 吉良様

17人泊り 宿賃57文

祝儀 1両


元禄14年正月25日 吉良様

祝儀 2分


しかし、本陣宿の宿賃の安さもひどいと思うが、祝儀も両家を比べると

単純に浅野は少ない。

馬が1匹入ると急に値段が高くなります。

人より馬の方が手が掛かるのです。


当初は、人の値段の倍を取ってました。

それから街道が整備されるにつれて、馬の需要が少なくなり

値段の下がって来たようです。


まずは汚い足を濯いでからです。


浅野が接待役を務めた時の話ですが、天和3年(1683)の時に

務めた時の費用が400両でした。

そこで、19年前の元禄10年の時に他の大名が掛かった費用が

1200両であった。


そこで浅野内匠は、間を取って700両でやるように

家来に命じたという。

しかし、最初の天和3年の400両というのは、良質の慶長小判で

為された時で、その後の元禄10年の時は、大幅に粗悪だった

元禄小判で為され、しかも物価の値段がまるで違うので

比較にならない。


  勅使伝奏屋敷

 

従って、1200両でも出来ないのに、

中間で700両で出来る訳が無い。

単純に経費削減という意味で700両を命じたのでしょうが、

それでは吉良との摩擦もあって然るべきではと思われる。


吉良も700両という予算を聞いて、「畏れ多くも朝廷からの

御使である大事な儀式であるから、減らす事はなりません」

という返事であったが、浅野は聞かなったらしい。

恐らくこの辺が松の廊下の事件の遠因であるのでしょう。




しかし、吉良は従4位左近衛権少将、堂々たる四品であり、

片や、従5位下ですから諸太夫。

その辺にどこにでもいる格です。


従5位下の大名が最初に目指すのが、4品入りと云って、

従4位に昇進する事です。

一つの大きな格式とされていました。

  年始登城 四品以上


軍隊の位でいえば、少将と少尉くらいの違いはあるでしょう。

その少尉が口答えすれば、少将は怒るでしょうね。

往復ビンタですね。


江戸時代は、「付け届け」というものが有りました。

これは挨拶です。賄賂ではないとされていました。

例えば、大名が参勤交代で出府すると、

若い侍が江戸で事件を起こす。

そうした場合に備えて、各大名は奉行所の与力・同心に日頃から

誼を付けておく。

何かあったらよろしくお願いします。という事で中元歳暮の時に

挨拶に行きます。


1回行くと金2分くらいでも、多くの担当になればそれだけで

稼ぎは違います。

与力などは、最も多く大名を担当していたようです。


大和国郡山藩柳沢家15万石で作られた贈答リストがあります。

その名を「年始・暑気・寒気・歳暮・雁拝領申合」といい、付け届けの

極秘リストです。

城内では老中から玄関番。掃除人。京都所司代から大奥までの

あらゆる階層に亘って役職が明記されています。


更に、別に昇進御礼や初御目見、家督相続、参勤交代などのもある。

貰う方からすれば、年に何回も様々な所から貰える訳ですから、

有力な役職に就いた大名・旗本が得るものは莫大なもので

あったでしょう。


一番興味深いのは、同じ役職であっても重要度により差をつけて、

それを用語によって妙に差を付けていることです。

老中  心易、別段懇意

留守居・目付・奥祐筆  用頼

徒目付・坊主   懇意出入・格別懇意・別段懇意・出入・立入


非常に苦心している様子が判ります。


以前紹介しましたが、旗本夫人の井関家でも、11代家斉の正室・

広大院の用人になりました。

大奥では儀礼が多く、担当の役人に「下され物」が頻繁に有りました。

「金三百疋」とか「銀何枚」とか諸道具が下賜され、年間多額になりました。

金500疋が1両1分になります。


広敷用人とは、大奥は担当の少数の男子の役人が管理・建物の修繕を

管理していた。


大名家の場合でも同じで、水戸徳川家の記録によると、水戸家姫君係用人

で有った時1844~1852年の間に、下され物の合計は、9年間で700両、

他に物品多数と有ります。

当時の広敷用人の臨時収入が判ります。

話は戻ります。

大名が勅使接待の馳走役を受けた時も同じ、

「いずれも世話役及び上野介方へ馬代金1枚(金10両。

早速付届け致し候。並の格と成りきたり候也」

しかるに内匠頭、生まれつき至極短慮にして優れて吝嗇強く

人の言う事少しも聞き入れぬ性質也」

と書かれている。


17歳の時に1度接待役を受けてるので簡単に考えたのです。

それで、馬代金金1枚ではなく巻絹だけを持参させたのです。

通常、最初に金1枚、終わったら金1枚なのですが、

最初から節約を図った。

そこから全てははじまっている。



富裕な商人の女性が塵除けに使用したものである。

特に、黒の布で作ったものは、門徒の女性が報恩講の

参詣の時被り「角隠し」と呼んだ。




この他、防寒用に真綿を薄く伸ばして作った綿帽子がある。

「都風速化粧伝」では「綿帽子は官女の老い人が、寒風を

凌ぐために額に綿を被る。」

今は、婚礼で女性がかぶる角隠しも、塵除けや防寒用に

使用されたのである。