これが参勤交代で江戸出府した武士となるともっと悲惨です。
独身で初めて江戸に行った時は物珍しくて良いですが、
妻子と切り離されての単身の生活。
仕事といえば、時々殿様が登城する時や寺に参詣する時の警護
あとは、藩邸の長屋で朝から晩まであくびをかみ殺しての毎日です。
役付なら1軒建てで玄関もあり部屋も数室ある様な家に住めるが
平の侍であれば、2階建ての長屋の1室で、家財道具も無い
寒々とした部屋で暮らすのである。
植木の栽培
その感想を尾張藩の御近習同心60人と共に江戸に来た武士は
嘆きます。
「江戸一とせの寓居は、僅かに膝をいるいるばかりにして、
風雪小窓を打ち雷雨雨檐にほとばしる。
酒飯飽くに任せず、いわんや魚肉野菜においてをや。
いたずらに閑情を來して鼠糞の内に常陰を送りしのみ」
男ばかりなので買い物も面倒なために、往来の面した窓から首をだし
物売りを呼び、笊の中に銭を入れ紐をつけて下ろし、買い物をし
ている。
中には、品物ではなく、比丘尼を籠で上げて楽しんでいる途中、目付に
見つかり、侍稼業を首になった人もいます
尾張藩長屋
でも、結構高さが有ります。
こうした若い武士にとって江戸での最大の敵は「江戸の女」です。
八代吉宗の頃、享保年間でも江戸の市街地に住む15才以上の
男女の数。
男 38万9918人
女 14万4715人
合計 53万4633人。
男38万の内、武士の数が26万3466人。
合計53万の内、女性が占める割合は27%。
男ばっかりという感じです。
この男社会に中で地方から来た武士は右往左往してしまいます。
勤番侍が江戸で惹き起した女の絡んだ事件は多い。
その為、各大名。旗本は町奉行所に伝手を求め、繋がりを持ち
年に何回か寸志を持っていくのです。
何かあったら穏便な御処置を宜しくという意味です。
深川岡場所
ともあれ、貧乏な勤番侍の行く所は、吉原などといったところでは
有りません。
安直な深川などの岡場所です。
或いは、夜鷹、丁度頃、夜鷹が登場しました。
武家が生活が破綻しての私議であったのでしょう。
線香が何本か消えるまでのお仕事です。
「昨日は宿直 今晩は床の番」
妓を待っている姿です。
夜鷹
女に溺れてというと例が幾つもあります。
例えば、伊予西条藩3万石の武士。
鉄砲師範ですから鉄砲に習熟し愛宕山にも射術精妙の額を
奉納するくらいですから並ではありません。
しかし、この武士は芸者に入揚げてしまいました。
年は7歳下だが色恋の手練手管は数段上のこの芸者、
武士がのぼせているとみて、絞れるだけ絞ろうとし、夫婦約束までして
絞ります。
しかし、この入揚げてる噂が藩邸の偉い方の耳に届き、不謹慎として
国に送り返されることになった。
喜んだこの侍、一緒に連れて帰ろうと芸者の家に来て、これで晴れて
夫婦に成れるぞと云う。
しかし、云われた芸者の返事は素っ気無いものでした。
逆上した武士は、藩邸まで鉄砲を取りに帰り、鉄砲を芸者に向けた。
おりしも夏の事で行水の真っ最中、その裸の胸乳に狙いをつけ撃つと
血だるまになる女の姿に驚いて、鉄砲を置いて逃げた。
この鉄砲から伊予西条藩の名が出て、逮捕。
獄門に処せられた。
武士にとって獄門はありないが、将軍お膝元での発砲が極刑を
招いたのである。
切腹が普通で、その場合は家はそのままだが、斬首や獄門は取り潰し
召し放ちですから、残された家族は当然路頭に迷ったことでしょう。
伊予・西条
ちなみに岡場所というのが出てるが、紀州徳川家のお付家老である
安藤家の家臣であった方が江戸の印象記を記している。
岡場所については「娼婦は回しといふ事あり。
一人の女郎にて一夜に客3,4人引受け、彼方より彼方、此の方より
此の方と順々回り、乗せて下ろしてまた乗せて、渡し船の如く
衆生済度は三尊の弥陀も、江戸の女郎には及び難し。
花魁昼三の上物には此の事なく、1分以下の安物に限れり。
流行の出の女郎は殊更回し多し」

