徳川邸

そして「お窪み」というお菓子などが入ってある部屋があった。

これは、大奥への贈答品なども、全てこの部屋に納められる。

4畳半くらいの大きさで、おじじ様への頂き物が、部屋の壁際と

中央にある棚に詰まっている。


おばば様だと、直ぐこの部屋に品物を入れてしますが、おじじ様

(家達)は、箱をあけて皆に配るので女中には大変評判が良かった。


そこには、当時珍しかった果物のネーブルとかメロンが有るが、

それらは美味しい内に食べるのではなく「お窪み」に入ってしまう。

ポンカンなども食べる時は、カサカサになっている。

友達の家でポンカンを食べた時は、こんなにジューシイなんだと

吃驚したという。


或る時、女中たちはおやつを食べていたのです。

見ると真っ青に黴が生えた蜜柑を食べていた。

そんなもの食べるの?って聞いたら、御酒の味がして美味しいです。

と答えたという?

饅頭などは、固くなったのを溶かして御汁粉にしたりもした。


娘たちは、よくこの部屋に盗みに入ったそうです。

見張りを立てて行ったのです。

ただ、羊羹などもコチコチになったものをお八つを出たそうです。


この辺は、慶喜家と違うのです。

慶喜家は「お菓子所」といいました。

慶喜家は、毎日、大きなお盆に乗せてお八つなどに

老女が沢山乗せて出していたとあります。



でも、女中たちにも月に2回御振舞いが有りました。

お常式」と云われたもので新しいお菓子を饅頭を出入の菓子舗の

菊寿軒に頼むのです。

箱の中には格子のように仕切られた菓子の見本があり、

私たちも選ばせてくれた。

新しいお菓子を女中たちに食べさせたのです。

息抜きですね。


長女の豊子は、お付であった女中の話として

ご奉公に出る時は、嫁入の時と同じように箪笥を2棹を持ち、

御殿に上がると直ぐに化粧箱を頂き「朝の化粧が済んだら

お湯に入ってちゃんと化粧して奥に出る様に、素顔では

いけません」と云われたという。


3年間は御目見え期間で、それが終わると「御本人」となる。

夜は寝る時も帯を解かず結び目を前に回して寝て、

寝乱れた格好をしない事。


又、夜9時前に当番のものが2人づつ「雪洞」を付けて戸締りを

確かめ9時に表と奥の境の杉戸を閉め、錠を下ろす。


女中たちは、御目見えの間は宿下りも出来ず、親の病気とか

特別な事でもないと休暇は無かったという。

盆暮にお仕着せの反物が出て、母や祖母の着た物を下げる時は

「おすべり」と云った。




会食所とも云われた台所は、大きなもので中では羽根つきをしたり、

羽根は幾ら撞いても、天井まで届きませんでした。

ローラースケートも出来ました。

これは慶喜家も同じで、3,40畳くらいあったようで、慶喜も

よく来て、飼育していた「かじか」(蛙)の餌の生きてる蠅を

取りに来ていました。


姉妹の話ですと、台所には、普段見た事のない食べ物が有って

羨ましく思ったそうです。

例えば、沢庵などは、真っ黄色な甘い市販のもので、そちらの方が

美味しかったし、烏賊の茶色に甘辛く煮たものもお次には出たし、

マヨネーズも、逗子に行くとキューピーなどの市販のものが出て、

酒悦の福神漬けとか、どうして、こんなのが出てこないかと

思ったりした。


やはり、食い物の恨みが恐ろしいですね。


少し離れた父母の居間を中奥と云った。

ここには、天璋院を始め13代将軍の生母.・実成院や

14代家茂の生母・本寿院も居て、お付の女中も天璋院の「さか」、

家茂のお付だった「せよ」がいた。


「さか」は大変怖かったという。

 家茂上洛

「せよ」は、家茂が大坂に進発する時、赤い陣羽織を着てたが、

送る時、なんだか無性に悲しかったという、そして、この時、家茂は

万一の時は、当時4歳の田安の亀之助をと言い残したという。

後の、徳川家達である。


昔、14代家茂の生母の実成院の所に居たという「いく」という

年取った女中と、若い女中が2,3人居た。

ただ、実成院の事を、孫たちは「御髪を剃っていたので、男だか女だか

判らないので、じっちゃま、と呼んでいたという。


実成院は大変手先が器用であったらしく、紙細工を上手に作り

昔は、それは奥では暇を潰す丁度良い作業であったという。


この頃は、天璋院の所に居たという女中などが2,3人居て

この人たちは、一生奉公で嫁にも行かずに来ていた人である。

結婚の経験もある人もいて、お歯黒や眉を染めていた人もいた。

鉄漿を煮る匂いがひどかったとこぼしています。


それぞれお付の女中がそのままいたので、江戸城の大奥を

其の儘移したようなものです。

しかも、その他に、新座敷に慶喜の姫君たちがいたのです。

ですから、祖母の苦労は大変であったようです。


姫君たちは、女学校に行かせるために慶喜は家達に預け、

家達はそれぞれ女中1一人づつ付けて養育した。

 華族女学校の下校


祖母は家達の正室で、母は長男の家正の妻で生母でしたが、

私たち子どもは生母ではなく、祖母から大いに影響を受けて

育ちました。

生母は、内気であり、何も言えなかったようで、島津家の育て方が

関係しているようでした。


姉妹が何人かいたが、育て方は、部屋から食事から別々であり、

全く交流が無いのです。

成人してからも、会ってもまるで他人のようであったという。

田安家に嫁入した姫も、例えば、廊下に物が落ちていた時は、

誰かが拾うまで、そこに立っていたと云い、戸田家から田安家に

嫁入した岩倉具視の孫も驚いていました。


この頃は、平屋の質素な家屋であったという。

孫たちの表現では「天井も低い、鴨居も低い、お粗末な建物」

これは、徳川家がまだ世間に遠慮していなければならないと、

思っていたからであるという。


この頃、勝海舟の3男と結婚したアメリカのクララ一家は、

赤坂溜池に近い赤坂福吉町の屋敷を訪問している。

その様子を「物々しい従者と護衛達が、一番品位のある3位様に

侍り、両側の道には使用人が並んでいた。

私たちを見ると、いかめしい恐ろしい侍全員が深々とお辞儀した。

若き徳川様を先頭に従者数名が付き添って、私たちは家の中に入った。

案内された客間はとても立派で、栗色の覆いをかけたテーブルが

中央にあり、ブリュッセル絨毯が床に敷いてあった。

体裁の良い椅子が周りに置かれ、隅々には屏風が立ってた。

部屋の周囲に絵が掛かっていた。

更に庭内を案内され、

「美しい庭園を歩いたが、日本によくある庭園法が行き渡っていた。

石燈籠の他にも、桜・桃・すもも・ばら・水仙、高さが6フィートで

周囲が4フィートもある様な大きな椿の木もあった。

婦人たちの居る所に行ったが、そこには老婦人が3人、28人の

侍女を従えて住んでいた、

最高位の婦人は気分が優れず、運悪くお目に掛かれなかった。

大勢の女の人達が廊下に出て挨拶したが、私たちは、

靴を穿いていたので中に入らず、外で15歳になる老猫と

戯れた」


最高位の婦人とは天璋院の事で、後の2人は実成院、本寿院でしょう。

将軍の生母よりも御台所が格式が上なのです。




又、この頃は和宮も自宅に家達や天璋院を招待したり、或いは、

逆に訪問して来たという。


勝海舟は「天璋院のお供であちこち行ったよ。八百善にも2、3度、

向島の柳屋にも2度、吉原にも行って、下情を見せた。

今では、千駄ヶ谷に鉄瓶が掛かってるが、それは船宿で

便所を借りて出ると、火鉢に鉄瓶が掛かっていて、

湯が沸いていたので、お茶と云って呑んだら美味しかったので、

これは良いものだ、と云ってそうなった。


後には自分で縫物もしたし、上手になって、縫って上げたようと云って

私にも羽織を1枚下さった。」

 船宿


ここで天璋院は、家達の教育と夫人である近衛家の長女・泰子を

徳川家の嫁に相応しく養育し、手元に度々呼んだという。

祖母の泰子は「天璋院様がよく遊んでくださった」と

よく述懐していたという。


この頃からでしょう。

天璋院は、島津家に女の子が出来たら、必ず、嫁に貰いなさい、

といって遺言のようになっていったのです。

従って、後に長男の家正の所に嫁入した島津家の娘は、

お腹にいる時にもう婚約していたのです。



天璋院の実家は島津家だが、一旦、近衛家に養女として入り、

それから、大奥に入ったのである。

島津家と近衛家の縁は古く、織田信長の時と、豊臣秀吉の時も

近衛家の当主が御機嫌を損じて島津家の身を寄せて、

危険から避けることが出来たという。

それくらい古い縁が有ったのです。


天璋院は明治16年11月二十日に亡くなった事から、その命日を

二十日会と名付け、代々重要と考えてか、戦争の直前まで続

けられたという。

二十日に亡くなった事から、「二十日会」と称し、その日には、

川村清雄が描いた油絵が掲げられたという。

如何に天璋院の存在が大きかったかを窺わせます。

天璋院油絵

独特の服を着ています。


その日には、天璋院のお好きな物が出たという。

それは、「餡かけ豆腐」「きがら茶のご膳(茶飯)、「白いんげん煮物」

日常的な物なのです。




これを巡っての話です。

孫の一人が学習院に通っていて、その子は大変好き嫌いが強かった。

しかし、白いんげんの煮物が大好物ですが、命日でないと作って

くれなかったそうです。

ですから、その日が来るのを楽しみにしていまして、或る時、学校の

日記に「明日は楽しみだ。二十日様のお豆が出る」

と書いたそうです。

それを見て学校の先生は、「これは、何の事ですか」と書いてきた。


天璋院のお付の女中で、江戸城から付いてきた「さか」は、

その日が来ると、二十日に上野寛永寺にお参りして松坂屋に

寄るのだという。

松坂屋は、尾張徳川家に縁が有ったようで、御用達でした。


 川村修就(初代)


川村とは、以前、ブログで取り上げた御庭番の川村家の子孫で

あるという。

思いもかけないところでまた出会いました。

親子3代の縁でした。