婚儀のこの目出度い日の事を母は歌を詠っていた。

いさましく いでたつ姿送りつつ 曇る眼をいかにかはせん」



そして、花嫁の里帰り「お里開き」といいます。

ちなみに夕食を(おさんど)、昼食を「おにど」と云いました。

二度目、3度目の意味でしょう。



婚儀の一か月後でした。

喜佐子は、髪を整えなければならないので、何時も出張してくる

床屋さんに頼んで髪を切って貰った。

床屋さんに行くことは有りません。



両殿下がお見えになったので、玄関でお出迎え。

幼い子は出ないものとされていたので、私たちは出ていません。

日記には「いろいろお話をしてそれから食堂でおさんどを頂きました。

と有るので、御客座敷で召上られたのかもしれない。

  
  六天屋敷玄関


その後、両殿下は、天皇の使いとして一年2か月に亘る欧州訪問

を行った。



「新しい水兵服を着て、おたた様、妹の3人で、信濃町のお兄様や

水戸様の典様と一緒に高輪御殿に向かった。

ついて少しするとお姉さまがサーモンピンクの素敵なお洋服で

「まあ、しばらくね。ごきげんよう。どうぞこちらへ」といって

宮様のいらっしゃる所に連れて行って下さった。


そして、お家へ帰ったのが9時だったので大急ぎで寝た。

お土産のお人形を抱っこしながら」

そして、両殿下からお土産に頂いたのが、リリーとチェリーでした。

西洋人形です。

他にも、リボンが掛かった玉子形の箱に入ったレースのハンカチと
香水のセット、バラの花が付いたペンダント、ピンクの羽の扇、

見たことのないものばかりでした。



御人形は、薄桃色の頬でくりくりとした目が上下左右に動くものでした。

横にすると眠り、お辞儀させると可愛い声で「マンマーマンマー」と

泣いた。

人形の道具も、白地に金具が付いたロココ風の箪笥とレースの付いた

ドレス、下着、石鹸、タオルまでありました。

ただ、御人形には寝具が無かったので、お付の人が私たちと同じような

日本風布団とソバガラノ枕を造ってくれました。





名前は色々考えたが、リリーとチェリーにしました。

朝、学校に行く時は「行ってまいります」と声を掛け、

帰ってくると「大人しくしていた御褒美よと云って、お八つをあげました」



或る時妹が真顔で、突然、「私、学校に行ってても子供が心配で」

と云ったら、傍に居たお付の女性が笑い出して

「お母様、お忙しい事ですね」と笑って言いました。



そして、秋になった或る夜、母がせっせと編み物をしていたので

何をしてるかなと思っていたら、温かい毛糸で編まれた白と淡い

ピンクのリリーとチェリーのマントでした。

 慶喜と夫妻

父が買ってきてくれた人形が有りました。

これは、唯一の父と私を結ぶものであ、妹はまだ生まれてなかったので

私だけが持っていたものです。


この人形は、父が日本赤十字社の慰問使として欧米に行った

時のものでした。

この時、母は歌を詠んでます。

同日の夜、背の君へ

雲もなくまどかに澄めるこの月を 

      君はいづこに見そなわすらむ

この歌の月を母は、いつものように居間の机に向かって

御覧になったのでしょうか。


人形の名前はピエロ。

とても品の良い顔立ちをしていました。

頬はほんのり赤く、丸い目は横にすると長いまつげを伏せて寝るのです。

服は水色と臙脂の染分けでした。

お腹を押すと音楽が鳴り手足を動かすと、可愛いい音を出した。


高松宮さまからも人形も頂いたりしたが、全部なくしたり壊れてしまったが、

この人形だけは今も残っているのです。


父は又俳句も作られた。

おじじ様(慶喜)の亡くなる3年前だが、高浜虚子の句会に

参加され句を読み、虚子に褒められたという。

鳶の輪の 中の小村や 五月晴れ

晴れた日、鳶がのんびり飛んでいるのを見ると、この句を思い出します。