Tokugawa Iesato.jpg

主人は勿論慶喜の後を継いで徳川家の16代を継いだ家達です。

自らを慶喜は徳川家を滅ぼし、自分は再興させた、といい

初代であると称しました。

ただ、世間からは「16代様」と呼ばれた。

貴族院議長や日本赤十字社社長を歴任した。


ただ、家達は英国に留学していたからか、家族全員で食堂で

食事をしました。

この時代としても上流階級では珍しい事であったでしょう。

子煩悩であったらしく、「お雀」というが、食事中に孫を傍に呼び、

自分の箸でオカズなどを孫の口に入れて食べさせるのである。

これは、孫たちの多くが述べています。

宗家の家族構成は、家達夫妻、妻は泰子「おばば様」と呼ばれ、

近衛家の長女。





子供は家正に妻の正子(島津家の9女)

子供が、綾子・綏子・繁子の3姉妹、これ等の伯母達を孫らは、

大・中・小の大叔母様とか、中伯母様とか呼んでいた。

 家正夫妻

Iemasa Tokugawa and his family.jpg

家正の妻・正子について、娘の長女の豊子は、母は男尊女卑が

強い薩摩の生まれで「喜怒哀楽を表してはいけない」

「大きい声を出してはいけない」「口を開けて笑ってはいけない」

という事をしばしば言っていました。


この方は、天璋院の遺言により、島津家に女の子が産れたら

宗家の長男の嫁にしなさいと云われ、正子の言によると、

「私はお腹にいる時に、もう婚約していたの」


正子は控え目で、しかも、祖母がやり手で男勝りの出来た方で、

家の中の事は,全部仕切っていて、子供の教育から

面倒をみていたので、母は、何も言えず,じっと黙っていて、

脇にどけられていて可哀想でした。


父が外交官でしたので、中国や英国に行きましたが、

外交官の妻として接待が出来ませんで、

結局、日本に1人で帰ってきてました。


明治時代というのは、皇族・華族の息子は、

外交官か軍人となって,皇室の藩屏となることが当然とされ、

殆どの皇族・華族は、何れかになっています。

従って、家族の戦死者は多く、中には戦犯として罪に問われ

罪を全部背負って弁解もせずに黙って死刑になった方もいます。


徳川家達の長男・家英は、音楽が好きでその道へ進もうとしたが、

それを聞いた祖父の家達は激怒し、それなら勘当すると答えた。


一面大変な動物好きで、家には色々な動物、蛇から鰐など

鳥は勿論ですが、多彩でしたようです。


豊子は、私たちも大きくなると、母のその立場が分かってきて、

出来るだけ、母の所に行くようにしました。

それまでは、おばば様の所に行っていたのです。

母は、裁縫が上手でしたので、その時は行きました。

 

 家達   家英  家正



家正の子供が家英、豊子、敏子、順子の3姉妹。

但し、家英は24歳で亡くなり、後継を巡って混乱し、

結局、豊子の2男が跡を継いだ。


        3姉妹


宗家の屋敷は、今の千駄ヶ谷駅南側にあって、敷地の他に、

飛び地もあり10万坪を越えていたという。

中には、森が有り林が有り、田畑が続き、農家が点在していた。

今の東京都体育館です。


お謡い所もあって、慶喜も謡の会(十徳会)にしばしば来ていた。

お謡い所も、座敷もあり、その場所は、宗家の南に徳川邸があるが

そちらの方だったという。

慶喜の息子の・厚で分家されて、土地を分けて貰ったのです。


家達の娘たちの表現を借りると「表の御門を出て、千駄ヶ谷の町を

ちょっと横切って、向こうの町に入ると、お家の地所でしょう。

それで田圃を通ると、南邸の先。」


自分の土地からなかなか出られないのです。
 下にあるのが分家の徳川邸

又、やはり、よく来たのが勝海舟の三女の逸子で、

今の専修大学をの創始者に嫁入した。

彼女は、話が長くて、長くて、家から何度電話がかかるか判らない。

夕方になると、その度に今帰ります。の連続でした。


彼女は、司馬さんの(竜馬がいく」で、ちょっとだけ登場しましたね。


これは親譲りですね。

しかし、家正の娘たちの話では、勝の姿はあまり見せてないようです。

勝海舟と呼び捨てです。

(テープに残されている家正の娘2人の会話です)

記録に残したのが偉いですね。


でも、預けられていた慶喜の娘二人は、ここで勝海舟と会いましたね、

丁度学校から帰ってきたら、勝が座布団に坐っていて、

「今、お帰りかね」と声を掛けて、娘も挨拶したが、態度が横柄に見えて

部屋に戻ってきた娘たちは「なんて、嫌な爺さんでしょう」と怒ってました。


屋敷は門の正面が大きい西洋館で、昭和4年に完成し、

敷地1万2千坪の中に、白壁に黒っぽい木の骨組の見えるスタイルで、

これは客間として作られた。


長女の豊子の感想では、「目を閉じれば、いつも心に浮かんでくる

千駄ヶ谷の家の様子、うらうらと陽がさした広い芝生の庭、

芝生を渡って來るそよ風。

その風に乗って聞こえてくる青山四連隊の兵隊さんの吹くラッパの音。」

  青山練兵場


家族は、奥の日本館に住んでいた。

孫の感想では、寺のようで廊下が続き、非常に寒い所であり、

中では綿入れを着ていたと云ってます

大座敷の鶴の間の傍を通って奥に祖父母の居間が有り、

ここを「奥」といった。


  家達家間取り



次の間にはいつも侍女頭を始めとして7,8人詰めていた。

常時お裁縫をしていた。


ここに祖母は上座に正座して、一家の者が着る着物の

采配を振るっていました。

季節の変わり目ごとに仕立て直される着物の数は相当なものでした。

伯母達は、着る物は、同居していた慶喜の娘たちのお古を

着せられていたが、継ぎはぎの長襦袢だったという。

懐巻でも粗末だったが、病気になり医者を呼ぶときだけ、

縮緬の懐巻を着せられたという。

慶喜の娘たちには、新品を与えていたようです。



屋敷の者が着る物は全て皆ここで手入れされ、傷んだところは

裏から当て布をして繰り返し活用され、最終的には懐巻などの

夜具に使われたという。

祖母が、姉様被りになって、女中に指示しながら自分で手を下していた

姿を忘れられません。

ですから、大きくなっても布団の綿は家で入れるものだと思っていたという。