この頃は、江戸時代と同じく婚期が早かったようで、しかも、

結婚式当日まで、相手の顔を見ることが無かったようです。


参考まで、田安徳川家に嫁入しました。

徳川元子が居ます。

田安家といえば、御三卿の一つであり、領地は持たず、

江戸に居住し、家来は、旗本・御家人が任命されました。

 田安家屋敷門

江戸時代、大垣藩戸田家10万石の次女の話です。

戸田家は、幕末、洋式軍隊を持ち、長州藩に手痛い打撃を

与えたことも有りました。


しかし、その後岩倉具視との接触に成功し、岩倉家と繋がりが

出来、無事に維新を乗り越えることが出来た大名でした。


田安家は、今回の相手の父と慶喜の長女(鏡子)が14歳の

時に結婚したが、直ぐに長女は死去しています。

子供が4人居ました。

後妻は、島津家の姫でした。

今回の相手は、その息子です。




花嫁・元子は13才になる手前でした。

学習院の女子部の2年でした。

お見合いという事を、祖母に聞かされて、当日、袷に海老茶の袴

という学校の制服姿で華族会館に行きました。

制服でのお見合いです。

華族会館は、前の薩摩藩の中屋敷でした。

主に朝鮮使節の控室として使用された。

 華族会館


結婚に繋がるものであるらしいお見合いだという事に気づいた

私は、戸惑いと恥ずかしさに上気してしまった。

いつ終わったかも知らないうちに、帰宅し、お相手の顔は

とうとう見られませんでした。


家に帰ったら、貴方のは「お見合い」ではなく「お見られ」だと

云われたのです。


後で聞いたところでは、相手は、宮家からもポツポツ縁談が

起きて来たが、宮家から貰う訳にもいかないので、適当な

相手を探していたという。

一方、こちらは、母を亡くした私を祖母が心配し、自分が

老い先短いのを考えての事だったらしい。

夫21歳でした。


大正15年、18歳で結婚。

この日は、支度に時間が掛かるので早く起こされました。

髪をおすべらかしに結って貰いました。

固形の油で髪を立てて前髪を立て、後ろに下げた髪の毛に

かもじを足して奉書で巻いて元結いで縛ります。

  付けた方によると、大変暑苦しいものだそうです。


着る物は、袿袴(けいこ)と云われるもので、海老茶色の袴に

同色の沓、上着は赤地に菊の花の固紋を固く織りだした

厚地の西陣で、何枚かに重ねた色とりどりの襟が付いたもの

でした。

十二単衣は、皇后が式時に着る物で、臣下は袿袴(けいこ)を

着るものでした。

緋色の袴は、娘の物ではなく既婚者のものだという。


十二単衣は重かったと、高松宮妃は述べてます。

ようやっと歩いていました。と。

 袿袴(けいこ)


三田の新居の家の大きな応接間の床の間に、天照大神の

掛軸を掲げ、仲人の徳川家達夫妻(田安家当主の兄)始め

出席し、神主が榊で御祓いし三三九度の盃事をし、終わりました。


この後が省略されてますが、この後のしきたりも大変なのです。

取り敢えず、婚家に云ったら、実家の母に手紙を書かなければ

なりません。

これが、奉書に筆で候文で書くのです。

昭和に入っての事で、候文は勿論習っていません。

従って、これを巡っての喜劇も起ります。

その辺は、後でしっかり書いてます。


それ以外にも、親類への回礼、そして、里開き(里帰り)など

それらだけで3日間くらい掛かるのです。

流石に、どちらの本も犬張子の話は出てません。

 和宮の犬張子

田安家で慶喜の長女が死去し、後妻として入った元子の

義母は、薩摩藩島津家の御姫様でした。


島津侯爵の4女・知子の婚礼行列は盛大であったという。

一番前の荷物が三田に着く頃、後ろの荷物は未だ袖が崎を

出る所であった。


島津家に居る時は、襖は自然に開くもの、廊下を歩いている時

邪魔なものが有っても、誰かが除けてくれるまで動かなかった。

 磯の別邸

磯の別邸に住んでいたが、姫たちは一人一人隔離されて

4,5人の使用人に仕えられ、寝起きから食事まで姉妹は

別別であった。

日用品や食品もそれぞれに届けられ、物を買う事も知らず、

買物を頼んだり、自分で買う事を「物を上げて貰う」とか

「物を取る」といった言葉を死ぬまで使っていました。


親兄弟とは疎遠であり、姉妹の一人は山階宮家、1人は久邇宮家へ

上がったが、姉妹が逢ってもお客様同士みたいで

打ち解けませんでした。

宮家への嫁入の事を、上ったと云います。

恐らく、雲上人から来ているのではと思います。


義母は義父が出かける時でも女中任せであり、自分は朝風呂に

入り襟に真っ白に白粉を塗って出てきたり、午前中はお化粧に

掛かり切りでした。




食事も好き嫌いが多く、老女に「どうして私の嫌いなものを

出すの」などと叱ってました。


着物も朝夕晩、3回着替えてました。

外出の時は大きなダイヤモンドを両手に嵌めてました。

着るものも大好きで何時も新調していました。

それは亡くなるまで続いていました。


江戸時代の大奥の姫君と同じですね。


しかし、この婚家である御三卿の一つであった田安家は戦争を

待たずに没落したのです。


それは、十五銀行が昭和金融恐慌に巻き込まれての取り付けにあい

経営破たんしての倒産でした。

十五銀行は、有力華族が金を出し合って出仕した銀行で、

別名・華族銀行とも云われた銀行でした。

1説では、情報を早目にキャッチした武家華族は逸早く、資金を

取り出したために没落を免れたが、公家家族は知らずに居た為に

倒産まで知らず大損害を受けたという。

この責任を取って、代表者であった松方巌公爵(元首相松方正義の長男)

は責任を取り私財の大半を放出の上、爵位を返上した。


田安家は、領地を持たない華族でしたので、家来も忠誠心も無く、

関心を持たなかったのでしょう。

巻き添えを食って、三田に在った土地を慶応義塾に売却し

千駄ヶ谷の本家の近くに別棟を立てて住んだという。


他の華族も、戦後、華族が廃止され、税金で土地を取り上げられ

殆ど無い状態になります。



   千駄ヶ谷・家達邸

第六天とは比べものにならない立派さでした。

どっしりとした洋館の応接間や引き手に房の付いた襖の

和室が記憶に残っています。


家達家に預けられた慶喜の娘たちに戻ります。

又、普段の躾として、食べる時には箸の先を1分以上

汚してはなりません。

箸でオカズを「ツツキ箸」や「まわし箸」にしてはいけません。

これは小笠原礼法によるものです。


家達家は、小笠原流を礼儀作法の指南としていました。

或る日、家元が屋敷に来て、お昼を召しあがったことが有りました。

家元は、お茶漬けを希望だという。

小笠原流では、食事の最後には、お茶漬けにするのが作法だった。

しかし、最初からお茶漬けとは無作法と思い、家元の食事後

主人の家達に申し上げたのです。


すると家達は、食器を見せてごらんというので、食事後の膳を

そっくり持って行ったところ、家達は家元の使った箸を手に取って

「ウーム」と唸って、老女に箸を見せました。

するとどうでしょう、箸は先1分しか汚れておりません。

「流石!家元」皆さん驚いていました。

先1分の礼法でした。


でも、慶喜家では、お茶漬けは下品なものとして食べたことは無い、

と云っていました。

武家と公卿とでは、作法は違うのでしょうか?



そして、お手洗いは、お早めにどうぞ、と云われました。

何故なら、我慢してると、大きな音がするからです。

昔は、姫や奥方がお手洗いに居る間、もう一人の女中は、

ご不浄の外にある御手水鉢の水を柄杓で叩いて

内から漏れる音を消していたという。


中、もう一人と有るので、恐らく、中に1人入り世話を

してるのでしょう。

1回厠に入ると下帯から足袋まで取り替えたそうです。

旗本から上がってきた側室は、中まで入ってくるのには、

耐え切れずに拒否し、自分だけ入っていたと云います。

13代家定の生母の本寿院がそうでした。

大の慶喜嫌いでもありました。


大好きなトイレの話が出てますが、ここはスルー、次に進みます


当時は、良家の娘の躾としては、和歌が詠めて、

字が綺麗に筆で書けて、御琴が上手にお裁縫が出来れば、

それで好い花嫁になると云われたのです。


返事をする時でも、返事は1回「はい」と早く短くする。

「はいはい」とするのは、重ね返事といい、「はーい」は長返事、

どちらも宜しくないと云われた。


又、おとと様にお答えする時も「でも」「だって」とかは、

お口応えとして禁じられた。


普段でも、女中が掃除をしている先に居ると、

「そんなところに居るとお嫁に行っても、3日で帰されますよ」

と云われたものです。

この辺は、何しろ煩かったようです。


 勝海舟


この頃だが、千駄ヶ谷の徳川宗家の屋敷に勝海舟が来ていた。

徳川を救ってくれた人として重要視されていた人であった様で、

姫達が学校から帰ってくると、勝が畳の上に手をついて挨拶した

姫君に対して、「よー今お帰りかね」と座布団で仰ったのです。

その言い方があまりに横柄に感じて、部屋に戻ると

「なんて嫌な爺さんなんでしょ」と話ししたそうです。