保年間、江戸は京橋にあった「お満稲荷」で売り出したという

「おまんが紅」がある。

歌舞伎俳優の女形の佐野川市松が紅売りに扮し、

手に「べにや」と描いた赤い木綿の旗を持ち、

背負った箱には「京橋 中橋」とあり、

紅猪口と紅筆を持ち、紅の他にも白粉や櫛、鏡掛け売り歩いた。

お猪口紅

佐野川市松は市松模様で知られた当時人気の俳優である。

「賀の祝い おまんが紅を つけるなり

長寿の祝(還暦・古希・喜寿)には、「寿餅」といい、餅を

饅頭形に作り、上に紅で「寿」と書いた。

お祝いに近親者に配ったのである。

 市松模様


紅は京が本場である。

小町紅

絶世の美女・小野小町にあやかった商品名で、京都で作られた

亰は紅を抽出する高度な技術を持っていた為である。

特に良質な口紅のことを指して小町紅と称した。

名も高き 花も都も 小町紅

小町紅の店として亰の紅屋平兵衛がある。

略称「紅平」、御所にも納めていた御用達である。


「美男美女 蜆と紅に名を残し

在原業平と小野小町のことである。

京都紅花問屋


天保2年(1832)に出版された、『商人買物独案内』(京都編)には、

「御用小町紅」として京都四条通麩屋町東の「紅平」

(紅屋平右衛門)の名が収載されている


良質ゆえに非常に高価であった。

一般庶民が容易く購入できる口紅ではなく、

主な購入者は御殿女中や豪商の婦女子、

花柳界の遊女といった粋筋の人々だった。

良質な紅は、容器の内側に塗り自然乾燥させると、

赤色ではなく笹色(玉虫色)の輝きを放った。


爪紅については「爪紅もかしからず、赤きは拙し、

これは降りみふらずなる時雨の染めし、初楓の寒さの、

紅葉したるに例えたるもの也」

付ける時は、真っ赤にするのは拙い、降るのか降らないのか

判らないほどの、初楓の紅葉に例えるものだという。

「官女の化粧の具にして、下ざまのすべきとことにあらずとなん。

とあり、宮中に帰る女達の化粧であり、

市井の女がすべきでない。としている。


又、加賀前田家に伝わる「女中化粧録」には、

骨や肉を露にするのは、無礼であり、肉のあまりである爪は、

紅粉をさすのが礼儀である。

としている。

  摘草

「爪紅を 草に残して 春の野辺

初春の若草つみである、女達は嬉々として草を摘む。

草は惣菜として食べる。

爪紅が残した草に付くという光景である。


看板について

江戸時代は、看板は多種多様でした。

店頭に置く箱看板、店頭に立てる建て看板、

屋根に飾る屋根看板、店内に置く置看板(衝立看板ともいう)、

店頭を飾る掛看板、表障子に書く障子看板、

行灯や表に置いたりする行灯看板、

芝居小屋や見世物小屋などの絵看板・旗・幟看板など。


屋根看板


此の看板は、薬種問屋や呉服店が多い。

費用がかなり掛かったようです。

実際には、数は少ない。

理由は、江戸時代は、歩行者が殆どであり、

上に注意を向けないからである。


 建看板

 紅問屋の看板である。

大変費用の高いもので、道に建てるのであるから許可申請が

必要であり、しかも、派手な物があり、金銀箔や龍の彫刻の

飾りをしたものなど豪華なものがあり、合計で百両以上も

掛かったという。

大店でないと建てる事は出来ない。


行燈看板

 両国橋にあった「いくよ餅」の行灯看板

暗くなると灯かりを入れる。

左の看板は、たばこ屋の看板

箱看板

  うどん屋の看板

暖簾の下に、紙で作ったうどんの形をしたものを飾ってる。

字の読めない人でも判る様にとの考えです。


 或いは、見て直ぐ判る様な看板。

     灸点所

街道筋の茶店にある簡単な看板



一番注目したいのは、看板には、職業や商品を書く事である。

店名。屋号などではない。

屋号などは、日除け暖簾などに書いてある。

 日除け暖簾に越後屋のマーク

越後屋呉服店でも、看板には「呉服物」と大きく書いてある。

越後屋 復元看板(三井越後屋ステーションにて撮影)