利島
最小の島である。
島の周りは岩礁だらけで、船が接岸できず、しかも、水が乏しい為に
絵島生島事件で流された江戸城留守居役の平田伊右衛門の他
2,3名であった。
寛政8年遠島を免除。
新島
流人墓地
この島には、独特な形をした墓石がある。
島で取れる火山岩の1種で柔らかく、鋸でも切れて鉋も使える。
その為か、墓石には博打で使うサイコロの形や、
酒樽の形などが並んでいる。
云うまでもなく、酒好きな囚人や博奕が好きな囚人が希望し
造って貰ったのでしょう。
この島には、4代家綱の代、寛文8年(1668)から送られてきた。
170年間に1333人、赦免された者605人(内死後赦免112人含む)
島抜けを企てたもの61人、再犯で処刑された者11人。
年齢別で20,30代が多い。
特に29歳が多く60人である。
年長者で76才
逆に年少者では、20歳前後が11人、18歳が5人、17歳が6人、
15歳が10人(女2人含む)
無宿者が多く486人、女流人も26人居る。
著名な所では、斬られ与三の相棒・蝙蝠安、
後に島抜けに失敗して、島で処刑された。
新選組の最後の隊長である相馬主計、北海道の五稜郭に転戦、
そこで土方歳三戦死の後を継いだものである。
後に、赦免され榎本武揚(五稜郭の隊長)から、県令の打診を
受けたが、謝絶し、割腹自殺をした。
相馬主計
それと天海僧正の高弟である羽黒山の別当である天侑法師。
羽黒山と酒井家との争いに巻き込まれたのである。神津島
島の名は、昔々神々が集まって水配りの会議を開いたからだという。
ここには、駿府城で家康に仕えた大奥女中の「おたあ・ジュリア」。
朝鮮の役で武将の小西行長が拾ったという孤児で、
朝鮮の女性である。
小西家に務めていて、そのころ受洗してジュリアという信者になった。
小西行長は、キリシタンで受洗もしていますから、当然のことでしょう。
その当時は、流行のようになっていました。
好奇心も有りますし、新規な物が手に入るという事もあったでしょう。
信長は典型的でしたね。
町まで作らせました。
その後、関ヶ原で西軍が破れると、何故か、駿府城で大奥に仕えた。
家康もその美しさに食指を動かしたというが、頑として応ぜず、
信仰の世界へ入り込んで行った。
江戸も文化年間ですと一般的に女性の化粧も薄くなってきたが、
しかし、江戸城の奥女中や大名屋敷の奥女中は、目鼻がやっと
判別できるくらいの厚化粧であったという。
いわゆる「白壁づくり」である。
顔面を真っ白に塗りたくり、髪は椎茸髱と呼ばれる独特な髪型、
そして、帯は提げ帯と云われる恰好であったと云われます。
結果的には、これ等大奥女中や大名の奥女中が白粉を
首から胸まで塗りたくった事は、乳幼児にとって有害であり、
白粉の基である鉛を舐める結果となり、乳幼児の生命を
脅かしたことになり、以前取り上げましたが・大和の大名、
柳沢吉保の子孫ですが、一族の平均寿命と20歳過ぎての
生存率は非常に低いものでした。
依然、記していますので省略します。
随筆にも「後宮に宮仕えの婦女は、
古昔より髪の風俗かはる事無し。
御殿風とやらん唱えて、何方にて見ても紛るることなく、
賤しむることなし。
後宮にては、常人の髪容を下方風と唱えて賤しむとなん」
庶民たちの女の髪型を(下方風」と称して、下賤であるとしている。
中臈代参
そして、幕府から禁教令が発せられるが、依然として信仰を捨てず、
信者には水攻めや火焙りであるにかかわらず、「おたあ」にだけは、
遠島に処せられた。
人は不思議に思ったようである。
しかも、お供に聖画などの信仰の道具も許され、端女もつけられる
という厚遇でした。
島では、粗末な流人小屋にミサの絵を飾り、十字架を置き信仰した。
そして、40年間生きそして没した。
流人小屋というのは、大体、掘っ立て小屋で柱は皮付きの丸太、
屋根は草葺き、周囲の囲いも草葺で、出入り口は半間で筵戸、
床は無く、流人たちは寝草を敷いて寝たという。
或いは小屋の大きさは3坪から4坪、半分に低い床を作って、
半分は土間、そこで屋内作業をし、隅に石を置いて竈とした。
9尺2間ですから、江戸の長屋と同じ大きさです。


