黒鍬組の屋敷(小屋)が手前に並んでいる。

恐らく、筵等で入口を仕切っているでしょう。

15俵取りですから、最下級の御家人です。


安政二年(1855)の記録に同心ではありませんが、

30俵3人扶持である御家人の家計の記録がある。

30俵を札差に売り、

先ず、手数料(決まりでは100俵に付き金1分)

であるので換算すると500文が手数料になる。


他の家と同じように拝領屋敷の一部を借地に充てて、

その借地料が年に金2両。

3人扶持(一人が5俵なので15俵)を自家の食糧に充てる。

但し、家は父母。夫婦・子2人の6人家族であり、15俵では

足りないので禄にある15俵を追加して食料としている。


本来であれば、使用人を使うのが原則だが、御覧のように余裕など

ありません。

同じ30俵取りの同心と比べると貰い物がないので、大変です。


そうすると碌の30から15引いた15俵が残り、

それを売却した5両と家賃代の2両、合わせて7両が収入です。

大奥女中の地代収入にも足りません。


支出は、仲間への諸雑費代が1両。

残りの6両で道具や衣服、調味料、光熱費、贈答、修理、

病気などに充てられる。

当然ながら、内職して支えている。

今は、札差への借金は無いが、もし、あれば内職を

もっとしなければならない。

我々のクラスで、御家人の中でいえば、「中の上」です。

下のクラスの人はどうやって暮らしているのでしょう。

と述べている。


幕府も、これ等旗本御家人の苦境を救おうとしました。

例えば、8代吉宗の時、「上米の制」、「足高の制」を作りました。

上米とは、参勤交代に掛かる費用を軽減させ、

その代りに石高に依り一定の米を出させる。

これは、幕府の財政が苦しくて旗本御家人に与える米が無い為に

考えられたもので、吉宗は率直に文書で「恥辱も顧みず」と

記したのです。


中々、書ける事ではありません。

只者ではないと思ってしまいます。

実は、このとき、吉宗は参勤交代の数を減らそうとも考えたのです。

世は大平になっているし江戸に人が集中するのを好ましくないと

思っていたようです。


結局、この案は採用されませんでしたが、もし採用されていたら

江戸の運命も大きく変わっていたことでしょう。

化政時代に生まれた爛熟した文化は生まれず、もしかしたら、

寿司や天麩羅なども運命は違っていたのかも。


足高とは、人材登用の道を開いたものです。

登用すると石高を増やさないといけません。

そうすると幕府の負担がその後増大するだけに

なってしまうのです。

その負担を無くす為に、役職に就いている期間だけに

手当を付けて、役を退くと手当が無くなり、

幕府の負担が無くなるというものでした。

要するに加増というものが少なくなっていった。


こうして、政策を打ち出して行ったが、間に合わないために

上記のようになってしまった。




このように拝領屋敷を他人に貸して時代を稼ぐというのは、

この時代、一般的になっており、勝海舟の家も、

四谷に拝領屋敷が在ったが、そこは貸して地代を稼ぎ、

自らは、本所。赤坂などに居を構え、

30年の間に5回も引っ越している。


そして、役人の場合は絶えず引っ越しがありました。

大名屋敷も結構変遷しています。

加賀藩も上屋敷は3回移転してます。

例えば、幕末の能吏であった川路聖謨は、安政の大獄の時、

将軍継嗣で一橋慶喜を支持した為に、井伊大老から

その仕返しに、今迄、小石川門内に1200坪あった屋敷を

取り上げられ、

6番町の600坪の屋敷に移され、

しかも御役御免となり、隠居させられました。

このようなケースもあったのです。

 小石川門


そして、町奉行所も負けずに?土地を貸して地代を

稼いでいたのです。

奉行所の年間経費は1200両と云われる。

勿論、人件費などは、役高・役料・御役金などが支給されるので、

それは別です。


1200両の半分を地代で稼ぎ出したといわれる。

南の場合は場所は、5カ所あり、浅草、神田、下柳原、

霊巌橋などの地面を貸していた。


以前紹介しましたが、長期出張も武家は有りました。

その際は、土地と家を切り放して別々に同人と契約を結び、

但し書きを入れて公用で戻ってくる場合は、直ぐ立ち退く事」

という条項を必ず入れて置きました。

そうしませんとトラブルが多かったようです。

拝領屋敷そのものは売買できませんが、その権利を売買し、

もう不動産の売買は避けられれない流れになっていたのです。


特に定回り同心は、「江戸の三男」相撲取り・火消と並んで、

非常に人気がありました。


実入りの好い華やかな同心の格好はというと独特でして、

先ず、武士にとって当たり前である袴を佩かないのです。

例え将軍の御成り先でも、「着流し御免」といって

着流しが許されていた。

黒羽織を纏い、しかも、それは巻羽織と云って、

裾を内側に捲り上げて帯に挟み茶羽織の様に短く着るのです。

全員ではありません。

定回り、臨時廻りだけである。




そして、髪型は「八丁堀風」といい、髷の元結いで

結んだところから後方に突き出た部分を短く詰める。

木刀を腰にさし、御用箱を中間にも持たせて歩くので、

直ぐ、同心と判った。

いつも奉行所に付けるのではなく、番屋と呼ばれる自身番に

いることが多かった。

自身番の大きいのを「大番屋」といって 

これは「調番屋」ともいいます
有名なのは 八丁堀や萱場町の大番屋で材木町三丁目と

四丁目の間にあったのが泣く子も黙る「三四(さんし)の番屋」

といい 最も有名でした。

他に、5丁目と6丁目の間に在った五六の調べ番屋も有った。

  自身番


ここに町役人や書役、番太郎が居て、簡単な留置施設も有り、

怪しいと思えば別に捜索令状や逮捕状など有りません。

容疑者をここに連れてきて、叩くのです。

叩くというのは文字通り青竹などで痛い目に合わせる事で、

拷問ではありません。それは出来ません。

本によると、「八町堀町方役人の手先出張して、

罪人の拷問をなすこと、毎日のごとく打ち続き、

悲鳴の声戸外に漏るること珍らしからず。」

とあるので、日常茶飯事の事であったのでしょう。