名奉行というと、曲淵甲斐守や御家人の株を買って異例の累進をし

随筆「耳袋」を記した根岸肥前守、この方は百姓の子と当時云われた。

多分、やっかみも有ったのでしょう。

御存じ遠山の金四郎もいる。


大岡越前は,元禄13年(1700)に1900石の旗本の家を継いで、

栄達し享保2年(1717)に江戸町奉行に就任した。

役高は3千石ですので、1100石は足されて支給されます。

足高制といい、8代吉宗が人材登用の為に採用した画期的な制度であり

大いに幕臣に昇進の道を作りその家計を助けました。


大岡は、大岡政談で有名であるが、殆どが作られたもので、

実際に裁いたのは白子屋お熊事件くらいであり、天一坊事件なども

将軍の御落胤の問題で在った為に五手掛かりの裁判

(寺社奉行・町奉行・勘定奉行・大目付・目付)であり、列席したに過ぎない。


大岡の功績は幕府の法律となった「御定書」を編集したり、目安箱を提案

したり、江戸の消防制度を作ったり、さつま芋の普及などの、行政家として

力量であったと思われる。  

さつま芋は、与力の家の庭に芋を作らせたりして、手助けをしました。

芋は、飢饉の際に威力を発揮し、後には女性の絶大な人気を得て

無くてならないものになり、10文出せば子供を泣き止ませ、書生の

腹を塞ぎ、女性を黙らせた。

与力 冠木門
メタボンのブログ

与力は200石の御目見え以下の御家人であった。

建前は1代限りの「お抱え席」であったが、実質は世襲と同じで

子供は12,3歳の頃から見習いに入り馴れていくのです。

これは同心も同じでした。


諸大名・旗本・大店からの御用頼み(家来が何かしたら宜しくという)

300諸侯と大名の数を云いますが、実際はそれほどはありません。

しかし、その数に大身の旗本から依頼も有るので、南北与力を合わせて

16人、大体一人20家ほどは受け持ちます。

大口が20軒有れば、盆暮は当たり前ですが、それ以外にもあります。

博奕や風俗関係も有ります。

そしてもっと大きな付届けは岡場所と呼ばれる音羽、深川、根津などの

江戸七か所からのお目こぼしを求めるものでした。

 深川岡場所


しかし、お上の方針により改革の度に岡場所の取締りを行いました。

吉原などの公許である遊女に対して隠し淫売と呼ばれました。

その時は、事前に話をしてあらかじめある程度の数の遊女を

逮捕させるのです。

幕府の法律である「御定書」では、そうして捕まった遊女は吉原へ

3年のタダ働きと決まっており、吉原は大喜びで、

再三厳しい取締をお願いしました。

そうした遊女を「奴女郎」と云われた。

奴隷と同じです。

寛文8年(1668年)、江戸市中の私娼窟取り締まりにより娼家主51人、

遊女512人が検挙されて新吉原に移された。


勿論、四宿といわれた品川・新宿・板橋・千住の遊女の数も吉原からの

強い要請により遊女の減少をさせようとするものでした。

 土蔵相模 品川


この四宿の特徴を表したという小咄が有ります。

宿場女郎が客の前でした屁をどう誤魔化すか?

品川では、布団の裾を持ち上げて「あれ、帆掛け船が行く」

新宿は、「あら、地震かしら」というと

客は「地震だって、それは屁の前か後か」。

千住は、傍にいた若い衆が自分の所為にしたのを、客が感心して

祝儀を出したら、女郎が「今のは私の働きだ」

板橋は、客が文句言うと「何云ってやがんでぃ、

手前が方々でどこそこの女郎は客の前で屁をしたんなんて

言i触らしてんのは。」と、胸倉掴む。

「喋らねえから勘弁してくれ」と客が云うと、

「きっと喋らねえな、それじゃ、もう一つ」

と更に大きくブゥッ。

 内藤新宿遊女