刑罰について

刑罰は6種類である。

叱り・押込・敲き・追放・遠島・死罪である。

奉行が刑を言渡すのを「手限り」といった。

軽罪のもので、中追放までの罪である。

中追放とは、江戸所払い及び家財、屋敷の没収です。

罪を犯すと土地・家も無くなってしまうのです。

武士でしたら、拝領の土地ですから理解できますが、自己所有である

家屋敷でさえも没収されるところが怖い処です。


武士と庶民とでは違う。

武士の場合は自分で始末しなさいというのが考え方です。


以前も紹介しましたが、幕末に或る外国人から武士の事について、

問われた方がいました。

その問とは、「武士とは全く命を重く見ないのでしょうか?」

それに対して、「いや、武士とはいえ命は惜しむ。ただ、薩摩武士は違う。

罪を犯した場合、役人は、その武士に対して「お前の罪は死に価する」

と宣告するだけであり、その武士は家に帰って切腹する。

周囲もそれを信じて疑わない。


薩摩武士の場合は、幼少の頃から妙な遊びをしていました。

「野郎会」という遊びです。

天井から火縄に火を付いた鉄砲を吊るしてくるくる回すのです。

その内、鉄砲が発砲して弾が飛び出て、人にあたる事もあります。

しかし、狼狽えずに悠々と酒を呑み交しているのである。

そこで、慌てる人は臆病者として蔑まされるのです。

こうして幼少の頃から、訓練されて「議を云うな」と、年長者を立てなさい。

といった郷中教育の為であろうと思われる。

これは、幕末対決した会津藩も同じであり、奇しくも同じ教育を経て、

精強を謳われた両藩が激突した事は不思議な事でした。


刑も色々有る。

特徴としては恥辱をもって刑に加えるという考えである。

例えば、死後に刀の試し切りにするとか、首を晒すなどといった

考え方である。

ですから、武士の場合、切腹を名誉とし尊んで斬首を恥と

していたのです。

そして、大事な事は切腹ですと、死後もそのまま家族は禄を保証され、

子が継ぐことが出来て生活は安心なのです。


軽い刑の順で書くと。

叱り

最も軽い罪であり、叱りと屹度叱りの2種である。

文字通り、同心などが説諭する。


敲き

庶民に対する刑で。

軽・重があり、牢屋敷の門前で公開して行われる。



押込

座敷牢といわれるもので、外との接見や通信を遮断する。


預かり

奉行所に預けるのではなく、町内のどちらかに預けて、

監視させるものである。

士分以上、及び、それに準じる婦人が該当する。

又、大名預かりもある。


幕末、妖怪と云われ町奉行として蘭学者を弾圧したが、

罪に落され、四国・丸亀藩にお預けになった。

昼夜兼行で監視者が付き、使用人と医師が置かれた。

監視は厳しく、時には私物を持ち去られたり、

一切無視されたりすることもあった。

嘉永5年(1852年)の日記には一年中話をしなかった

という記述がある。

明治元年に恩赦になったが、「自分は将軍家によって

配流されたのであるから上様からの赦免の文書が

来なければ自分の幽閉は解かれない」と言って容易に動かず、

新政府、丸亀藩を困らせた。


閉門・逼塞・蟄居

武士のみの刑である。

門扉に竹で十字に打ち付けて封印し、出入りを禁じるもので

50日と100日とがある。

逼塞は、閉門よりは軽い刑で、門扉に竹など打ちつけず、

門扉閉じるだけである。

閉門とは違い屋内の雨戸や窓は開けても良い。

友人なども来訪も許可されていた。慎みは30日間、逼塞は50日間。


これは、御殿医桂川家の所でも、叔父の藤沢(慶喜の側近)が、

言葉が過ぎたとして、閉門を食らいました。

担当が来て、バタバタと矢来を組んで通行を遮断した。


蟄居

本人だけの刑で、家族の等出入りは自由である。

本人は隠居させられ、子が禄を継ぐ。

永蟄居は、解除は無く終身である。

蛮社の獄で永蟄居とされた三河国田原藩家老の渡辺崋山は、命を受けると

翌日切腹した。

恥と思ったのでしょう。


闕所

武士と庶民両方である。

個人の所有物を没収するもので、流罪・追放に付加される刑である。


改易

大名や旗本の武士のみ。

士籍を削るものや、領地家屋敷を没収されるのが最大の刑であり、

失職した武士を浪士といい、百姓町人でも職を失ったものを浪人という。


晒し

僧侶や親中に失敗した人に対する刑である。

「御定書」には、「女犯の所化僧は晒の上、本寺触頭へ相渡し、

寺法の通り致すべき」とある。

所化とは、寺持ちの僧侶の事で、これ等は遠島である。

そして、もし相手が人妻であったならば惣領と云えど獄門である。

日本橋で三日間晒されて、女犯であると、追放された。


ただ、遠島であっても島の寺の住職は後継者不足であった為に

公然と妻帯を許された。

中には、子を持つのもいたという。

品川の客に にんべんの 有ると無し

これは、品川の遊郭の客は、近くに薩摩藩の屋敷があるので、その侍と

やはり近くに増上寺があり、その僧侶が客であったからである。

侍から「にんべん」を取ると「寺」になる。川の客ににんべんのあるとなし」

心中に失敗した人は、いわゆる奴と呼ばれる身分に落される。

ただ、これは、金で解決した場合もあるので、再び、平民に戻れる

可能性がある。

手鎖り

庶民に対する刑である。

30,50,100日の刑が有った。罰金の額によって日数が変わる。


これは、特に、戯作者や或いは贅沢な振舞いを為した場合、例えば、

鮓などでも10両とか20両とかの鮓を作って売り、町人の身分で

贅沢として罰せられた。

言論の統制の手段としてよく用いられた。

しかし、両手を手錠をされているので、生活には著しく不便です。


剃髪

婦人に対する刑で、不倫や密通などによる。


奴隷である。婦人にたいする刑である。

心中未遂や岡場所の遊女が捕まると適用された。


入墨

盗犯に対して行われた。

敲き刑や追放刑の付加として行われた。

地域により文様が違う。


追放

庶民に対する刑。

所払い、江戸10里所払い、軽追放。中追放、重追放

抜け道も有り、旅姿で江戸に立ち寄るのは認められていたので、

草鞋を穿いていれば大丈夫。


江戸所払いとは、朱引地からの追放である。

奉行は中追放まで認められていた。



溜り預かり

追放刑を受けた庶民は無宿になる。

これ等の罪人を使って、佐渡送りとして、水替え人足として送られた。

建前としては恩赦があるが、佐渡へ送られると過酷な労働条件により

寿命が短かった。3年くらいが平均寿命であったという。


但し、佐渡への遠島は5代綱吉の代で終了されている。

その後は、遠島ではなくて、単なる水汲み人足として送られた。

 佐渡金山


遠島

全ての人が対象である。

重罪者は永代橋から、軽罪者は万年橋から送られた。

重罪者の船はひらがなで「るいんせん」、軽罪者の船は漢字で「流人船」

と書かれた。




死刑

下手人・死罪・獄門・磔・鋸引き・火焙り・武士の切腹。

下手人・死罪・獄門は、皆首を刎ねられるが、その後が違うのである。

斬首されたのちに試し切りにされないのが下手人であり、もっとも軽い刑

犯人の事を下手人と呼ばれてるのが間違いです。

 獄門


死罪の場合は、死後に試し切りにされたり、死骸は取り捨てとなる。

獄門は死後は獄門台に晒される。

要するに恥辱を与えるかどうかである。


斬首の場合は、同心が勤める。

手当として、刀の磨き代として金2分(2分の1両)

同心の他では、首切り浅右衛門で有名な山田浅右衛門が勤めた。


山田は、将軍家の御様御用も務めた。

収入源は「死体」であった。

処刑された罪人の死体は、山田浅右衛門家が

拝領することを許された。

これら死体は、主に刀の試し斬りとして用いられた。

当時の日本では、刀の切れ味を試すには

人間で試すのが一番であると思われた。

さらに副収入として、山田浅右衛門家は人間の肝臓や

脳や胆嚢や胆汁等を原料とし、労咳に効くといわれる

丸薬を製造していた。

これらは山田丸・浅右衛門丸・人胆丸・仁胆・浅山丸の名で

販売され、山田浅右衛門家は莫大な収入を得ていた。


ただ、女性の試し切りは禁止されていた。

死亡が多いという説もあるが、幕府は、武家・社人・山伏・

重度の皮膚病と並んで「御様に不相成」としてある。

逆に、解剖用として女性の場合は、回されたケースが多い。


その場合、磔では解剖が出来ないので、斬罪として貰い解剖に

した事もある。


明和8年(1771)杉田玄白らの医師の願いにより。

千住小塚が原で子殺しの罪で死罪となった女の解剖が許可されて。

執刀は非人が行い、杉田らはクルムスの「解剖図譜」が

正確な事を知り「解体新書」を完成させた。

医学界に多大な貢献をしたのである。


ただ、解剖はこれが初めてではない。

京都にて120年前に行われている。

1754年(宝暦4年)京都所司代の許可を得て死刑囚の

解剖を行っている。

やはり、死罪となった女囚人であった。


段々と年が進むにつれて解剖の件数は増え、その為、

死罪の囚人の遺体が間に合わなくなってしまい、明治になると、

それがさらに増大する。

勝海舟も海軍卿の時に、海軍軍医で使用したいという事で、

要請を出している。


  鈴ヶ森刑場


ドイツ人ケンペルは、江戸参府の時、鈴ヶ森刑場を通った時の印象を

「日本誌」に記している。」

「その死体や首は皆腐って腐乱している。犬や鶏に

食い散らかされた胴や首、手足が重なり合っている。

一見ぞおっとするような不愉快な戦慄すべき光景であった。

 江戸参府旅行

幕府は敢て、街道の側に刑場を置いて見せしめとして

通行人に見える様にしたのです。

江戸時代は、死罪は年間2千人以上処刑されたようであり、

如何に、刑が厳しいものであるかが判る。