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髪結い床

式亭三馬の本に「浮世風呂」と並んで「浮世床」がある。

孰れも庶民にとって格好の社交場でした。


江戸時代当初は、橋の袂などに床店(縁台風の簡単な店、後に

小屋掛けになった)

段々と町に家を借りて営業する店を「内床」、木戸の脇や橋の袂

の店を「出床」と称した。

  出床
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江戸初期の頃で1つの町に1軒、約800くらいの店があった。

次第に増えて、幕末の嘉永年間には2千軒くらい有り、それに出床を

プラスすると2500軒くらい有ったとされる。


江戸の髪結い床は公務を抱えていた。

江戸には大高札場が日本橋、常盤橋、浅草見附、筋違見附、高輪車町、

麹町にあった。

その他に、普通の高札場が35ヶ所でした。

高札場を守る事であり、いざという時は高札を守って立ち退く事である。

又、奉行所が火事の際は、書類などを運ぶ任務も有った。

  日本橋の高札場

高札場は、幕府にとって大変重要なところでした。

幕府は、新しい法令を民衆に公示し、この高札に書かれた文字は庶民も

読めるように仮名混じりの文字を使い、しかも、これを寺子屋の教育に

持ち込み書き取りさせました。


  日本橋晒し場
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そして、罪人の晒し場が有りました。

ここには女犯をした僧侶や心中を失敗した男女が3日間晒されました。

幕府は、心中という言葉は、美化すると思ったのか、8代吉宗の頃に

「相対死」という文字を使い、もし、行った場合、厳しい処分をした。

日本に 死に損ないが二人なり

心中した者を不義密通の罪人扱いとし、死んだ場合は「遺骸取捨」、

葬儀、埋葬を禁止し、一方が死に、一方が死ななかった場合は

生き残ったほうを死罪とし、

また両者とも死ねなかった場合は非人身分に落とした。

  曽根崎心中
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僧侶の場合は、

修行中の僧が未婚の女性と通じた場合には、筵の上に座って

三日間晒し者になり、各宗の規律によって処罰され、寺からの追放。

未婚の女性と通じた場合には、島流しの刑に処された。


既婚の女性、つまり人妻と通じてしまった場合には獄門に処された。

獄門とは死刑の一種で、斬首の上、台の上に首をさらす刑である。

孰れも厳しい刑であるが、熄ことは無かった。

お釈迦様でも苦しみ、親鸞はとうとう解脱できずに妻帯を勧めたのです。

「功徳にも なれかしと後家 帯を解き」



髪結い床には毎月の定休日が有りました。

それは、家康の髪を結って1文貰ったことがあり、それを記念してか

家康の命日・4月17日に合わせて、17日が公休日でした。

湯屋は1町に1軒とされていたので、必然的に希望者は多かったが

しかし、湯屋株は高く300から500両で取引された。

中には千両というのもある

髪結い床は、間口が9尺から2間の大きさで、入口の油障子には、

海老、奴、達磨などの屋号を現わす絵が描かれており、

夏には暖簾に代わる。

中は奥行き3尺の土間、上り框から3尺が板の間で、

その奥が待合室を兼ねた座敷である。

そこには、囲碁将棋は勿論、読本なども有り、湯屋の2階と同じ

社交場である。

髪結い床 1冊ずつは 絶えずあり
この本は春本です。

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髪をやる時は、客は表を向いた状態で、板の間に腰を掛けて、

職人は客の後ろに立って仕事をする。

これは通行する人で不審な人が居ないかも監視しているのである。


職人は3人立と云われるもので、左に親方、

真ん中に「中床」と呼ばれる職人、右に小僧が立つ。


客は初めの小僧の所で、扇子のような形の型紙を胸のあたりで

両手で持ち、すると、小僧は髷を縛ってある元結いを切り、

フケを取り、髪の毛を梳く。


次に、中床の所で月代と顔の部分を剃り、仮の元結いにして、

親方が仕上げをする。

夜になると木製の灯り台が土間に立て、冬には炉を作って暖を取る。

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「守貞漫稿」によれば、「大阪が最も綺麗で、京都、江戸の順だという」

代金は天保年間では20文だったが、客は4文銭7枚を払うのが

普通だった。


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廻り髪結いも居ました。

大きな商家を廻って結って歩くのである。

宇江佐 真理氏が小説に取り上げています。

鬢盥という道具箱をもってまわるのである。

回り髪結いの間では、出入する大店の権利を売買されることも

あったようだ。

大店の主人は毎日結うし、奉公人も大勢いるので、

十分商売になったからである。


たまには、「顎つき」で、毎日3度の食事をさせて貰い、しかも、

決まった金額を受け取っていた髪結いもいたという。


「守貞漫稿」によると、店から貰う金額は決まっていて、天保年間では、

店の主人は4,5日に1回で月に150文から200文、

手代や丁稚などは100文となっている。

毎日、結う者は月に金2朱(500文)でした。


八丁堀の与力同心などは、毎朝、職人が家に来て結ってくれたので

恐らくその金額に準じるものであったのでしょうか?

彼等の髪型は、銀杏髷の変形である小銀杏と云われるもので

月代が広く髷の先が少し曲がっていた。

  与力同心出役姿
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当初は禁止された女髪結いも登場しました。

髪型が複雑になり、自分で結えなくなってしまったのです。

そこで女髪結いが登場し、何度か禁止になりましたが、

やはり需要には勝てず定着し、商売となりました。

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そして文明開化の明治時代になると、変わって行くのです。

そして、永井荷風が理髪師に聞いたところによると、

「東京府下、結髪店3千余軒、名も「英仏髪ハサミ所」と題し、

店前に赤と青の捩じれたる棒の看板立てたり」

障子に達磨や海老が描いて有った形から「英仏髪ハサミ所」

という文字に変わり更に、「赤と青のねじれたる棒」が

立つようになったのです。

元々は、医家の方より来る。赤は動脈、青は静脈、白は包帯にて

外科医の目印なり。

それが理髪店の目印となりたるは、古、外科医の理髪をなしたる者

あるによるなり」とされている。


更に明治も10年くらいになると、大幅に変わっていました。

建物は煉瓦建てになり、庇の上には「西洋剪髪所」の看板、

店の中央正面には鏡が置かれなど、江戸のスタイルは

姿を消してしまった。


西南戦争頃ですね。

この頃から急速に西洋化していきます。

鹿鳴館時代を迎えます。


江戸は遠くになりにけり!