年始旗本登城
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幕府の役職には武官と文官が有ります。

武官(書院番や小姓組・大番・小十人組・御徒)であり、

文官とは勘定所のような所を云う。

寛政年間に発行された「御旗本武鑑」によると、旗本の総数は5169人、

役方(文官)に就いていた者は1290人ほど、番方(武官)が1760人
従って、6割が職に就き、残りの4割が職に付けずに寄合や小普請に

在籍していたことになる。


尚、寄合・小普請は石高に応じて金を納めます。

幕府に入る年間のその金額は2,3万両と云われたものが入った。


番方は、ローテーションを決められて3,4日毎に出勤であるが、

文官の方はほぼ毎日である。

但し、午後2時頃になると帰り支度をしていたという。

天明年間のある時、勘定奉行所に奉行として赴任した柳生主膳正と

いう方は、超真面目であったのでしょう。

何時までも帰らなかったそうです。上司が帰らないと部下は帰れません。

それまで午後2時には帰っていたのが、午後5時退勤になり、部下は、

家へは寝に帰る様なものだと大不評だったという。


又、江戸初期の慶安3年(1650)に出された御触れでは、

御直参之輩は不及申、諸家中の者たりといふとも、若衆道之儀、

堅為御停止之条、其間之使をも一切仕べからざる事

戦国の風潮である衆道を厳禁しているのが、当時を表している。


  虎皮鞍覆  御三家だけに許された鞍。
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参考までに、御三卿の一つである一橋家を例に取ると。

当初、御台所で家臣の朝食と昼食を賄っていた。

といっても飯だけの支給でした。

量にして一人前250匁(約1㌔)。


しかし、財政難のあおりで寛延元年(1748)部分的に修正し、

宿直者への夜食、及び、業務上居残りを命じられた者への食事

を提供する事となり、家臣は弁当持参となった。


それに代わって弁当手当が支給されたのです。

役職に応じて年に2俵半から5俵まで。

米5俵を換金すると金2両になる。


更に2年後には給食が復活したがその内容は乏しく、昼食と朝食は、

湯漬けと塩のみ、夕食は1汁2菜、量は有りましたが内容は乏しかった。

もっとも、江戸城もひどかったらしく「よしの冊子」にも、

同じころの食事について飯は一向に黒米籾糠御座候上に、米に芯あり

とあるので似たり寄ったりでしょう。


従って弁当持参となり、「鰤大根煮こごりにして持参」などとある。

無論持っていくのは弁当だけではありません。

徒士などは。番所詰ですから、布団や衣類も必要です。

布団は番所に置いたきりです。ですから、時々は家に持ち帰って

洗濯して又、持っていく。

衣類も同じで用意しなければならない。

  蚊帳
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夏になると蚊もでるから蚊帳も用意する。

旧暦の4、5月頃には蚊帳を運び込み、9月の節句には冬物入替をする。

これらの物は、葛籠や鋏箱を使い運ぶが、鋏箱などは必要が無い時は、

番所に置いたままです。

鋏箱が無ければ、運ばないで済むしお供を使わないで済み、

経費削減になるからです。

これら人件費だけでも大変な負担なのです。

 武士の外出
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ですから、お互いにお供の人の再利用をし、1人を時間などを決めて、

交替でお供を使い節約しようとしたのです。

もう既に、そこまで来ていたのです。

 重陽の節句
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他に番所に持っていくのは食品です。

色々なものを持ち込んで、同僚と交換したり分け合ったり、

時には酒を呑み交したり幕府は度々、

これらの事を「猥成儀」(みだらなる儀)と云って禁止しました。


同じことは尾張藩士の日記にも登場しました。

宿直の日に、豪華な弁当と酒を用意し、月見を楽しみながら宿直です。

(羨ましい)

  復元料理
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持ち込んだ食品は様々です。

節分の日であったりすると、酒・切餅・塩引などで、5月は自家製の柏餅、

8月15日には月見団子に酒、煮物など。


同僚と食べ物の交換贈答もする。

白魚を頂いた礼に松茸7本返したり、沢庵のお返しにヒジキを渡したり

凄いのは沢庵を貰った時のお返しが鰻7串というのもあります。

是はどのよう基準で返されたのでしょうか?


松茸7本というと豪華版ですが、恐らくこの松茸は「漬け松茸」でしょう。

石突を落してつぼみはそのまま、傘の開いたのは軸と傘を切り離し茹でて

冷まして塩に漬けたもので、使う時は、塩抜きして使ったようです。


関東は赤松が殆ど無いので江戸っ子は生の松茸を見たことが

無かったという。

ごく少数関東でも取れて、将軍に献上する時は、葵紋が付いた布を載せて、

宿をリレーして一昼夜で運んだと云います。

そうでないと匂いが飛んでしまうし腐ったりした。

Matsutake.jpg

関東の松茸は「金山の松茸」といわれた。

今の群馬・太田の北に金山という山があり、そこで年に7,8回取れたという。

府中の瓜・玉川の鮎と並んで珍重され、とりわけ、金山の松茸は

将軍家に送られ、老中にも下賜が有ったという。

中山道を警護されて午前9時に出発し、翌日の朝5時には

江戸到着するように、休みなく継ぎ足されて送られた。

  玉川鮎取り
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