ちなみに将軍が大名や幕臣に対して掛ける言葉というのは決まっていた。
次の写真は10代家治が謁見の際に大名や幕臣にかけた
言葉の一覧である。
将軍の言葉は「御意」と呼ばれた。
見難いかもしれませんが、文面には相手によってかける
言葉が書かれている。
将軍が大名と逢うのは御座の間や白書院が多く、
偶に黒書院が使われた。
二の間で控えている大名に、将軍が「それへ」と声を掛けて、下段の間の
敷居迄進み言葉が掛けられる。
この時大事なのは、本当に前に進んではいけないという事で、恐れ多くて
とても進めないといった風に、体を使います。
こうしたことは、式の前に「習礼」と云い、リハーサルを目付が
指導し練習する。
「甲子夜話」という平戸藩主であった松浦静山が書いた随筆がある。
その中に、或る日、静山が他の大名と「習礼」をしていたところ、
老中の松平定信が近くに来て同僚と仕事の話をし始めた。
そこにいた大名は、遠慮して黙っていたが、静山は声をかけ「今、習礼」を
しているので、そこに居られるれと出来ません。」と言ったら、失礼をしたと
場所を明けた。という話が本に出ている。
白書院
将軍のかける言葉というのは、
例えば、国許大名に対しては「息災そうに見えて一段な」とか、或いは、
参勤交代の大名だと「休息するように」とか「在所への暇をやる」。
旗本相手ですと、「いよいよ念を入れて勤め」とか、「骨を折った」などと、
労いの言葉が入る所が、大名とは違うところである。
文面には「それへ」とだけ書いてあるのも有るので、その言葉だけで
終った方もいたのでしょう。
重要なのは、ぞんざいに話し、しかも、長く話さないということです。
そして、あまり、姿を見せない。神秘化するのです。
大名達は、頭を下げどうしで、目は1間先の畳の目を数えています。
将軍の顔などを見る余裕はありません。
浅野の殿様も、とても将軍の顔などを見ることなど有りません。
と云われてた。
ですから、絵などでも顔は描かれていません。
室内だと欄間の影、外ですと日傘の影になっている。
でも、将軍も部下を慰労をする時も有るのです。
是は11代家斉の事です。
江戸初期は、将軍の遊びは城内では能、外では軍事的な意味を持つ
鷹狩や猪狩りなど多かった。
しかし、時代が下ると共に金が掛かるために行われなくなり、
後期には途絶えた。
11代家斉は、浜御庭を大改修し、庭を見るだけでなく、
客を招いての園遊会も開いた。
時には部下の慰労の為か、役人を招いて園遊会をした。
資格として布衣以上の役職者で、諸太夫の者や老中なども出たので
是に参加することは栄誉であった。
布衣とは、狩衣に似たもので幕府の典礼・儀式に
旗本下位の者は、礼装は素襖とされているが、布衣の着用を許されれば
六位相当叙位者と見なされた。
有能な官僚であった川路聖謨も勘定所留役の時、招かれた。
留役というのは、幕府の金が出る時に確認をする役目で、
その印が無いと出金できません。
金庫番です。
浜離宮・汐入の池
天保5年(1834)8月、家斉が浜御庭に御成になるということで大目付と
三奉行から御庭拝見を許されるとの通達を受けた。
家斉はよくここに行ったようで、水路で行く場合は、御座船で隅田川を下り
浜御殿の御船着場から上陸した。
将軍が外に出る場合は以前触れましたが、路を通るだけで、道筋の家は
全て目隠しをし、住民は後難を恐れて何処かいってしまいます。
そして、川も通行止めになるというのですから、御座船を使用した時は、
更に、厳重な警備態勢が敷かれたことでしょう。
この船着場は、幕末、慶喜が大坂から船で脱出してここに上陸した。
「お上がり場」といい現代もある。
午前7時に御庭の門に集合、入口の所で家斉の御目見えがあり、
その後小姓の案内で中に入った。
御庭の亭(ちん)などは自由に見ても良いという。
亭とは茶亭の事です。
気に入った植木が有れば苗木を抜くようにという事だったので、
数本抜き取り紙に包んで申し出ると、帰る時に鉢植えにして下賜された。
釣も出来るというので、十数カ所に設けられた釣り場に行き
釣りを楽しんだ。
魚は、鯉、鰻、鱚、コノシロ、さよりとかいろいろな魚が夥しくいた。
釣りを楽しんでいると、家斉が「さよりは嘴が尖ってるので釣り難いが、
大きいのを釣れ」などと声を掛けて回っている。
そして魚が釣れると小納戸番が籠に入れ家斉に披露した。
御庭には、酒や料理が用意され、梅酒も有った。
帰りには、植木と岡持に鮨や菓子などが入っていたという。
こうした遊びは、各自の働きぶりを評価されてのものであるから、
選抜されたものにとっては栄誉の事であり、思い出になったものだという。
勿論、御台や大奥女中なども浜を訪れて庭や舟遊びを楽しんだという。
浜離宮を別な目で見た女の子がいる。
後に「ねごりの夢」という随筆を書いた女性がまだ10歳の時である。
母方の祖父が御殿奉行をしていた関係で、一時、住んでいたのである。
彼女の印象は、「広い広いお浜一帯どれくらい有りましたでしょうか。
決して私どもが近づいてはいけない所も多う御座いました。
御殿の御庭の下には金銀の棒が丸太でもあるように入れてあったり
しました。
それより幼心に残っているのは、「おはま」といえば梅。
行けども行けども梅で、これは梅の花よりむしろ梅の実を
珍重していたしました。
それは奉行の役得になっていたようでした。」
浜離宮では、梅ばかりではなく、朝鮮人参や砂糖の原料である甘藷も
将軍に献上した後の余剰分は売るのを許されていたのである。
これによって奉行は資産家になったという。
兎に角女性の脳裏には、何万本と並ぶ梅の木と、土手に植えられた
松並木が深く印象に残っていたようであり、それから何十年過ぎた時の
回想であるが、もう一度見てみたいと感想を述べている。
もっと印象深いのは澄んだ隅田川と行き来する小舟とそれを操る
鯔背で小粋な船頭であったようです。
それは後に紹介します。








