公家登城
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かなり脇道にそれましたが。

それに、将軍の御台所は京から迎えてますので、京出身も多いです。

京の公家の生活というのは悲惨なもので、公家の筆頭の近衛家でさえ

3千石です。

旗本でも大身とは言えない位置です。

ですから50とか60石取の下級公卿の生活は大変であったそうで、

内職は当たり前でした。


幕府の奥医師・桂川の娘・みねが江戸の昔を振り返って書いた

「名残の夢」には、京のある橋の袂で乞食のような格好で砂に字を

書いて遊んでいた少女に「お前のおとっつあんは?」と聞いたら

「身は姫じゃ」と答えたそうですが、公家の実態はそんなものでした。

公家の姫
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またしても余談です。

前述の桂川家は代々の奥医師を務めました。

その桂川がこう記している。

12代家慶の頃だが、御遊びとして、家慶の御前に金屏風で囲いをつくる。

そして、奥医師が籤を敷いて一人中に入る。

奥医師は僧体なので坊主頭である。方外の者です。

金屏風の中に入って奥医師が畏まっていると、家慶が声を掛けて、

「ご用意は宜しいか、参りますぞ」というと、同時に物が中に投げ込まれる。

最初は、服や布団などの柔らかい物だが、次第に御用箪笥や硯箱、花瓶、

火鉢、掛軸など何でも投げ込まれる。

中に来た物は全て拝領できる。

家慶は「もう良いか、未だか」と云いながら声を掛ける。


すると屏風の上まで物が重なっても「まだ、まだ」と返事する者もいるし、

2,3品で「もう結構です」と返事する者もいる。

家慶は、終始ご満悦で笑っているという。

こういう馬鹿な遊びもしていたという。


 婚礼用牛車  京で使い、途中街道では使えないので江戸へ送り

組み立てて清水家から江戸城へ向かいました。
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この話は、御伽坊主から伝わった話です。

その前に、御伽坊主とは、50歳前後の頭を剃った女性で、

仕事は将軍の閨房の世話係です。

将軍と中臈との同衾の際、隣の間に寝ていて、中臈が何を話しをしたかを

聞いている係です。

その装束は、七宝散らしの模様の小袖で、又、坊主にする為に剃った髪は

天璋院の「御かもじ」用になったという。

かみじとは、髪にボリュームを与えるものです。

  家茂との婚礼
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ついでにもう一つ、和宮と家茂との逸話です。

その坊主が見たというのは、家茂と和宮との最初の出会いの事です。

和宮様、将軍様とご対顔の際は、京都式にて一度も顔に剃刀の刃を

あてたまはされは、毛むくじゃらにて、将軍家は驚きの体なりしか、

その後江戸風に御顔も剃り参らせたれは、見違へる様にならせ給ひ、

将軍家との御仲も睦み給ひしとか


要するに、17歳の和宮を見て同じ17歳の家茂は吃驚したのです。

顔が産毛で毛むくじゃらであったからでした。

その後、顔を剃ったので見違えるようになったという。

顔の剃刀を充てないのが京風であったのでしょう。

大奥は毎日かみそりで充てるので顔はつるつるです。


でも、毛むくじゃらはオーバーでしょうね。少し、産毛が目立ったのでしょう。


公家は官位こそ高く大大名も及びもつかないくらいでしたが、

如何せん金が有りません。

ですから、お金を稼ごうと、例幣使になろうと運動し、例幣使になると

出入の魚屋や八百屋の連中を共にして、京の物品を買い付けて、

それを下向先で売ろうとしたり、或いは最も嫌がられたのは、

道中わざと転んで金をせびったり、大名と道中で出会うと嫌がらせをし

金にしようとしたりした為、大名はこの一行に出会わないように、

苦心した。

避けようとしなかったのは、御三家くらいでしょう。
  尾張徳川家行列
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娘がいる公卿は、この貧乏から脱しようとし、一番いいのは御台所に

付いて上臈として江戸へ行くことですが、それが叶わぬ家は、

各諸大名の奥女中の道を選びました。

大名の方も公卿風の教養や礼儀作法などを学べるので得が有ります。

姫や若君の教育にも役立ちます。

やはり、他藩の奥との遣り取りや、一番肝心ですが、江戸城大奥との

応接や手紙の交換が有りました。


手紙の場合は、例えば藩から大奥老女に手紙を出す時は、

「大奉書ちらし書」という様式でした。

ちらし書」とは、朝廷で用いられた優美な書体です。

大名から朝廷に出される場合は進物が有った際は、

「女房奉書」と呼ばれる礼状が出される。

その書体が「ちらし書」です。

御機嫌を取るために、各藩は何かにつけて大奥へ献上したり、

或いは薩摩藩のように始終手紙にて遣り取りのある藩も有った

大奥からの礼状

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