それから島原遊郭へ。
京の西の端の田畑の中に作られた2町四方の町で、変わっているのは
通り抜けが出来る事であった。
島原は日本で最も古い公許の遊郭である。
正徳5年(1715)の記録では、遊女屋31軒、揚屋21軒、茶屋18軒、
大夫18人天神85人、鹿恋58人、端女郎161人である。
太夫の花代は69匁、天神なら45匁、端女郎なら3匁が花代である。
馬琴に云わせると「今は大いに衰えて廓の土塀も崩れ倒れ、
家もきたなし。
太夫の顔色万事祇園には劣れり。角屋の座敷が最も良し。
この庭の松甚だ良し」
しかし、清川が来た時は「島原中最も古家にして地方より来るものは
必ず一見する大屋也。
座敷も色々ありて、庭に角徳の松という名松あり。」
角屋 揚屋造り
「京女は好いても惚れぬ」といわれます。
木戸松子(幾松改め)
幕末もそうです。
桂小五郎は幾松を後に妻としました。
蛤御門の変の際、逃亡した桂を探しに行き、橋の下で乞食に身を窶した
桂とのやり取りが知られている。
当時、長州藩は金を祇園にばら撒き、その為か、非常に人気があり、
後に長州が撤退した後も、長州人を匿う京都人は多く、幕府は異例ながら
「長州人匿うべからず」という制札を出したくらいです。
鳥羽伏見の戦いの前に、長州軍が上洛してきた時、一品マークの
長州藩家紋を見た人は涙ぐんで迎えたという。
これは、金ばかりではなく、長州人の捨身な面を評価されていたのでは
ないかと思われる。
知られています。
然しながら、土方歳三はあまり知られていません。
島原でのモテモテ振りを伝える手紙があります。
文久3年(1863)池田屋の変の2か月前ですから、
まだ、新選組はメジャーではない存在です。
「京にては、島原の花君太夫、天神、一元、祇園にては、
いわゆるけいこ3人程はこれあり。北野にては君菊、小楽と申し候まひこ、
大坂新町にては若鶴太夫外2,3人もこれあり。
北新地にては、沢山にて、筆にては尽くし難し」
とあり、上洛し9か月なのに12人の名前が挙げられている。
又、天然理心流の道場には土方から土方に充てた遊女からの
熱烈なる内容の多数の手紙まで送ってきている。
これ等を考えると、我らがあの健気なお雪さん(司馬さんが本の中で
土方の恋人として登場させた。たたみ鰯が好きな女性)が可哀想です。
「今から、雪は乱心いたします」といって土方との別れを惜しんだのですが。
許せません!でも羨ましい!
土方が使っていた鉢金 裏側の部分に「盡忠報国」と切ってある。
しかし、表の部分には、丁度、額の部分に大きな刀傷が有るのである。
この鉢金で受け止めて、斬り込んだのでしょう。
いずれにしても間一髪であったのでしょう。
土方は、35歳で近藤と同じ年齢で亡くなります。
25歳で天然理心流に入門し、29歳で京へ発ち、新選組を結盟し、
それから、僅か6年で人生を終結させるのです。
凝縮といってよいでしょう。
ただ、それまでは、ふらふらしていたような人生であったようです。
17歳の時には、江戸・大伝馬町の商家に奉公に行き、
半年で女性問題を帰って来たこともあったようです。
此処まできたら止まりません。
もう一人行きます。
山南敬助です。新選組総長であったが、主義が組と相容れず脱走して
江戸へ向かおうとする、探しに来た沖田総司に連れ戻されて切腹する。
その前日、山南が居る部屋の外に愛人の島原の遊女・明里が
来て、名前を呼び格子越しに指を絡めるのである。
新選組の局中法度はよく知られている。
「無断で局を脱することを許さず」に始まるものであるが、
しかし、実際は、どうも「局中法度書」、そういうものは無かったらしい。
勿論、規則は有りました。
新選組を最初に取り上げ紹介した作家の子母沢寛氏の創造で
あったようだ。
新選組を除隊した人もいるし、2回もそうしました。
脱することも可能であった。
では、局長の近藤勇。その妻・つね。
司馬さんの小説では無愛想で料理下手という印象を受ける。
然しながら、近藤の稽古着を見ると違う印象を与える
背中に髑髏の刺繍が有り、額には大きな向う傷が付いている。
しかし、目を見ると、大きな丸い目であり可愛いのである。
激しい稽古をして、あれを見た人はどう思ったのでしょうか?
新選組といえば壬生の屯所を思い出します。
当初、壬生浪=身襤褸と呼ばれた。
隊に金が無く着たきり雀であったので、あまりに薄汚れた格好を
京の人が莫迦にして呼んだものです。
近くに壬生寺があります。
壬生狂言で知られた寺で、節分・秋・春の年3回行われ、鎌倉時代から
700年以上伝承されている。
此の寺は24日が本尊の地蔵菩薩の縁日の為に参詣者が大勢来る。
しかし、その頃、新選組は大砲の演習と称して、門と本堂との間が70m
空いていたので、築山を設け、それを標的にして演習したという。
本堂の襖などが外れてしまい、参詣者も怯えたという(当たり前です)
また、相撲の興行を壬生寺で開催し、力士たちに殺生厳禁の放生池の
大きな鯉やすっぽんを取って振る舞ったという話もある。
寺は、止めて下さいという嘆願を手紙で出した歴史がある。
又、池の中には壬生塚がある。
近藤勇の遺髪塔と胸像がある。
しかし、清野はあまり島原に興味が無いとみえて、門前にある茶屋で
島原出口の柳
門の外には、「足洗いの井戸」というものがあり、遊女が身請けされたり、
年季を明けて廓外へ出るとき、この井戸で足を洗い、







