「四つ橋通り播磨屋平八にて煙管を買い、それより阿弥陀池、
大みなと西口しなはそば。新町を通り、坐間の宮、東の御坊・西の御坊。
幸いにて道行きに合う。御座敷拝見。
3階とも4階ともわからず、数限りも無き御座敷。結構いうばかりも無し。
堺よりの街道、桃沢山なり、桃畑夥し、天満天神。御城拝見。
高津の稲荷、其れよりうち帰り、又、新町に行く。
いちぜんの女中内みちにて井筒屋に行き太夫見る。」
扇屋染川 槌屋小紫
槌屋桜戸 同あやきぬ
扇屋小式部 同花鳥
槌屋世々花 扇谷逢坂
扇屋唐糸 同玉ノ井
同新造あさつま 同ひなさき
同ことぶき 同うりふの
盃終り、其れより帰る。
大坂見物である。
播磨屋の煙管は評判がよく、ここで土産に買う人が多い。
「786文 3本 つききせる」とあるので3本買ったのでしょう。
結構高いものであると書いている旅人もいるので、
和光寺の傍にあるのが阿弥陀池。
信州善光寺の阿弥陀様はこの池から出現したと云われる。
和光寺の境内には、色々な小芝居の店が出て人混みで大変である。
その後、木津川のほとりに出て発着する舟を見ていたらしい。
「船着き、一見、日本一也」と書いている。
三つの川が合流する地点であり、舟の発着が盛んでした。
川口での賑わい
それから遊郭が有った新町へ。
大坂の遊郭は、新町を始めとして新京橋、新堀町、吉原、佐渡島町、
九軒、佐渡屋の各町にあり、妓楼は155軒、揚屋は21軒だった。
花魁道中
これはその中の有名な扇屋の花魁道中と思われる。
それから「砂場」へ行っている。
有名な蕎麦屋で、今も「ここに砂場ありく」という石碑が立ってる。
西本願寺そして、信心深い清野は東西の東本願寺へ、「東本願寺高さ20間、
瓦の数20万、畳の数1890」と記した旅人が居る。
高さは、日記のように「3階とも4階とも判らず、数限りもなき御座敷」
その広大さにビックリしている。
東本願寺街道の両側は、桃の畑が並び良く生っている。
先日、奈良で食べた桃の事を思い出したでしょう。
そして、学問の神様である菅公の天満天神へ。
疱瘡退散にも御利益があるとされ、この時代、疱瘡は死病でしたから
士民はそれから逃げようと必死でした。
必然的に多くの人が集まり、各種の見世物や植木売りが1年中
店を出していて、江戸浅草と同様であった。
ここで行われる流鏑馬の的は、子供のお守りになると云い人気で、
又、其の的を口に咥えると歯の痛みにも効くと云われ
的を奪い合ったという。
疱瘡といえば、江戸では笠森神社。
笠森お仙で知られた処で、お仙は幕府御庭番・倉地家と結婚し、
多くの子に恵まれたようですが。
しかし、世の男はやっかみと悔しさに色々な噂が立ちました。
美人は辛いものなのです。
それから大阪城見学。
「御本丸より御堀見物仕り候」
高津宮、浪華の都の跡地で高台にあるので大坂を一望の下に
見ることが出来る。
高津宮の主祭神は仁徳天皇です。
仁徳天皇は、現代、大阪城のある石山を都と定め、大阪の繁栄の楚を
造ったと云われる。
石山から見下ろして詠んだ歌が知られている。
「高き屋にのぼりて見れば 煙立つ民のかまどは にぎはひにけり」
参道には多くの店が並び、特に、名物は湯豆腐で豆腐を薄く切って
器に入れ葛湯と辛子を掛けたものが評判だった。
又、黒焼屋と云い、鳥獣を焼いて食べさせる店も有った。
改めて新町に行く。
惣嫁という街頭で客を引く最下級の娼婦がいる。
「京は君、嫁は大阪、鷹は江戸」と云われ、京都では辻君、大阪では惣嫁、
江戸では夜鷹」と呼ばれる。
夜鷹
ここで全盛であった遊女と最下級の遊女を描いた浮世絵がある。
同じ入浴後の姿態であるが、違いをはっきり見せている。
吉原・全盛であった扇屋・花扇

井筒屋という揚屋に上がっている。
太夫を見るためである。
太夫は夏も緞子や綾織の打掛を2枚も3枚も着て、床入りの時だけ縮緬の
単衣か越後縮になる。
日記では、大勢来ているが、全員を相手にしたわけではなく、
太夫が入れ替わり立ち代わり顔を出して、そこから気に入った太夫を
席に呼びのである。
清野の頃から30年前に新町で遊んだ司馬江漢は記している。
「太夫を借りて見るに、僅かな物入りにて25,6人出る。
かいとり装束にて衝立の陰から出て盃を手に取り酒を吞む振りして立ち退く。
その内、我が気に入りたるを揚げたり」
ちなみに、この時の費用は、泊って揚げ代75匁、1両を越える金額である。
従って、清野もやってきた10人の太夫と4人の新造から選んだ。
「ようおいでなました」など(なます)という独特の言葉を使った。
ただ、今回は清野は太夫の衣裳や髪などには触れていない。
興味が湧かなかったでしょうか?
6月4日
「4日には歌右衛門の店へ行き「きよひ」?2匁ととのえ、
それより堂島に行く。
この間にて粟の岩おこしを買う。
生玉前にて中食す、6文飯に葛かけ豆腐8文也。
いずれも旨し。それよりだんだん帰る。」
堂島へ行く。
天下の台所である。諸国の米はここに集められ、毎日米相場が立つ、
数百万石の米が売買されるのである。
その煩さは「鼎の沸くが如し」と云われた。
米の値段は、直ぐ、各地へ連絡されるが、尾張まで伝わるのに
2時間であったという。
この頃は早く知るために符牒を決めて置き、遠くから望遠鏡で
全国で米の総生産高2700万石、人口は3400万人といわれた。
この頃江戸の人口は約100万人、江戸へ行く米は90万石、
人口と大体同じ飯米消費量でした。
生玉神社(生国魂神社)へ行く。
社内には田楽茶屋が並び、見世物や歯磨き売り、物真似、
粟餅の曲搗きなどの大道芸やある。
昼飯に葛かけ豆腐と御飯。
昨日食べた豆腐が気に入ったのか、今日も豆腐です。
生玉神社は豪壮な造りで、しかも類いなき眺望に恵まれた地にあり
又、庭には桜の木多く、弥生の幽艶斜めならず、門前の池には蓮の花が
紅白入り乱れて咲き、荷葉の香四方に芳し。とある。
それから淀川を舟で下って京の伏見に行く夜船を待った。
路は9里ほどである。
途中、枚方の近くに来ると小舟が寄ってくる。
有名な「くらわんか舟」である。
口汚く「酒くらわんか、飯食らわんか」と云い、酒や飯を売りに来る。
昔、家康がこの口の汚さを咎めたところ、これは地元の通常の言葉である
と説明され、それ以降、認められたという。
「東海道中膝栗毛」でも、「舟はもはや枚方といへるところに近くなりたりと
見え、商舟ここにこぎよせ、飯食らわんかい、酒飲まんかい、
さあさあ皆起きくされ、ようふさる奴らじゃな、と苫ひきひろげ喚きたつる」
と記され、有名になった。
枚方
大坂から伏見までは、順風なら午後4時ごろ出て翌朝8時頃には着く。
それが逆風になると大変です。
最悪の場合、岸の両側から曳き子が綱を曳いて行く。
これは1日労働になる。
下りは早い。6時間から8時間ほどで着いてしまう。
朝と夕、毎日2回出る。運賃は上りが180~200文、
下りは100文である。
使用する舟は30石船で、長さは27m、幅3,6m、28人乗り。
船頭や水夫が4人乗る。
従って狭いので2人分を買わないと寛ぐことは出来ない。
ですから、清野は白河夜船ですから何も記憶は無いでしょう。
夜舟だと布団を貸してくれる








