湯島聖堂からの眺望
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これに対して公立の学校である昌平坂学問所はというと、

家格別で3千石以上が太刀馬代、千石以上が金200疋(5万円)、

千石以下は金100疋、御目見え以下は銀1両だった。

各藩の藩校は無料であった。

 昌平坂講義風景
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私塾は、大村益次郎などが学んだ豊後の広瀬淡窓の感宜園は

入学金は金100疋、盆暮も各100疋、安い所では、

(金100疋は、4分の1両、2万5千円)

坪井信道の日習塾は入学金大豆1升、盆暮も大豆1升。

大坂の緒方洪庵の適塾は、福沢諭吉の場合は学費を払ってない。

その代り、蘭書の翻訳をしている。

高い所では、奥医師の伊東玄朴の象先堂、

入学金だけで1両2分(15万円くらい)。


これらのお蔭で、幕末、日本の識字率は恐らく世界でもトップクラスの

ものであったでしょう。

全国で約5万の寺小屋があったという。

 師匠への返礼
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師匠の経歴は、江戸後期には庶民が40%、武士が20%、僧侶18%

江戸・京都・大阪では女子の寺子の為に3人に1人は女師匠だった。

「女の子には女です」裁縫や礼儀作法もあります。

しかし、藩校などの高等教育機関には女子はいなかった。

 裁縫
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しかし、女性が活躍した分野も有ったのです。

稽古屋」と呼ばれました。専門的な技能が要求されました。

習字・三味線・琴・長唄などの音曲・茶道・生け花です。

教える対象は、幼女から結婚前の娘、そして、下心ある男達にひひです。

幼い子に教えるのは習字です。

武士の妻が夫に先立たれてしまい、其れから身についた裁縫や

礼儀作法なども教えられたので、親は安心して女子を女師匠に預けた。

 手習い
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以前、「浮世風呂」の10歳くらいの娘の湯屋での会話を紹介しました。

家のおっかさん、しどいのよ、おさらい、稽古ばかりで遊ぶ暇もないの」

と云ったことをこぼしていました

手習、三味線。踊り、琴などです。

では、この娘「お角」の一日のスケジュールはというと、かなりハードです。

朝起きると寺小屋へ行って自分の机を出し、三味線の朝稽古をし、朝食

そして、踊りの稽古、そのあと手習い、家にいったん帰り銭湯、その後、

琴の稽古、家に帰り三味線と踊りのお浚い、日が暮れると又琴である。

是では遊ぶ時間は無いです。

「浮世風呂」では、この後、母が「勉強、勉強」とうるさく言うが、父は、

「そんなにやかましく言う事は無い」と庇っています。


「守貞漫稿」では、「江戸は小民の子と雖も、必ず一芸を持って武家に仕え

しめざれば良縁を結ぶに難く、一芸を学ざれば武家に仕えること難し」

これが当時の風潮であった。


15歳くらいになると、長唄・常盤津に進んでいく。

 三味線
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当時、親は女子を武家屋敷、旗本・大名・江戸大奥の女中奉公に

出すことを目標にしていました。

然しながら、上に行くほど難しく、特に、大奥は資格もそうですが、

コネが無いと困難でした。


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以前大奥女中・御台所付御中臈として10年仕えた大岡ませ子の

証言を紹介しました。

ませ子は、伯母である後に年寄筆頭になった瀧山が自分の後継に

しようとしてませ子を大奥に入れました。

家は、小納戸を勤めた家で、小納戸とは将軍の身の回りをする

仕事ですから将軍とは馴染みが有ります。

といっても何十人といますので、印象が強くないと残りません。

但し、下級旗本ですから、瀧山と同じで家は貧しく親を楽にさせたい

という思いで、大半の女中が目的であったようですが、大奥での

立身を望みます。

そして、その望みは叶いました。


ませ子は、9歳で大奥に入り13才から仕事について働いています。

朝の3,4時から掃除をし、大奥は広くて、しかも、暗いです。

廊下にポツンポツンと燈籠がある状態ですから、相当暗い。

大狸クマに驚かされて、声を出すことは厳禁されているので、

口の中で「叱ぃ、叱ぃ」と云って雑巾を狸に投げつけて

人を呼びに行ったりしています。

大奥は、よくタヌキやキツネが出たそうで、新人の女中は、

よく脅かされたそうで、といって別に悪さをする訳では

なかったそうですが。

伯母の瀧山は後に幕府瓦解の際、江戸城を退去し行列を作り

今の埼玉・川口の錫杖寺に身を寄せて、その時使用された駕籠は

今も大奥と同じように天井から吊り下げられている。

 長局
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従って、大奥に奉公に出すのは困難であり、その女中の下働きの

部屋方が目標になります。

部屋方は、責任も無いですし、時々家にも帰れます。

要するに「宿下がり」です。

勿論、大奥女中は、宿下がりなど認められません。

終身奉公ですから、親の死に目に会えないことも多々あります。

部屋方は大奥では水汲みとかの雑用ですが、家では大奥女中らしく

見せることは可能です。

何しろ椎茸髱を見せるだけで、もう充分です。

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世に伝わる噂はこの時に発生したことが多いようです。

大奥女中というだけで、人の見る目が違います。

そこで箔をつけて玉の輿を狙っての事です。

大奥に入るには、芸事を習ってないといけません。

芸事から将軍のお目に留まることも有ったのです。

  踊りの師匠
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これは、11代家斉の頃、将軍の目に留まり、「お美代の方」が

町の娘から寵愛を受け、あれよあれよという間に子を産み出世し、

親も栄達し、幕府をも動かすくらいの力を持ち、

御願い事する人々が門前に列をなしたそうです。

中野清茂である。向島に御殿を建てました。


町の娘が何故入れるのかと思うでしょうが、権力を得たい人は

将軍の好みを承知していて、情報を駆使し好みの女性を獲得し

養子縁組をして大奥に差し出し寵愛を得ようとするのです。

勿論、大奥年寄の協力が無いと不可能な事です。


美代の方の娘溶姫は加賀藩前田家へ嫁入、東大の赤門が残りました。

初姫は広島藩浅野家へ、それぞれ何度も取り上げています。

これらを世間でも判ります。

その当時大奥の年間予算は、今の金で云うと200億円とも云われた。

豪華絢爛な世界でした。

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その為には器量もそうですが、芸事が重要でした。

というより器量は問題では無かったようです。

或る女中の証言では、「狆みたいな顔の側室も居ました」

などという言葉も有りました。

どの側室かというのは敢て申しません。


娘が玉の輿に乗るようにと、娘の幸せを祈る気持ち子をせっせと

金を出して稽古事に行かせたのです。


女師匠が生計を立てられる生徒の数は最低で十数人、

多い人は50人くらいの生徒を抱えた。

音曲などは、月に1回の「おさらい」で女一人の生計を立てられた。

 常盤津
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一方男たちが習う稽古事も有りました。

長唄から始まり端唄、小唄、三味線など多種多様である。

風呂で義太夫を唸ることを「湯浄瑠璃」と呼び、

是で夕方の男湯は煩かったほど稽古事通いは盛んであった。

夕方になると、路地裏のあちこちから師匠が教えている

稽古の音が聞こえてきたという。


落語の「寝床」は、旦那が義太夫を習って、みんなに聞かせたくて

酒弁当を用意して聞かせようとするが前回あまりの話の下手さを

承知している皆は集まらず、自分の長屋の住民を無理やり動員し、

折角集めても、皆寝てしまい旦那が怒ってしまうという話です。


以前、参勤で江戸へ出府した紀州藩士を書きましたが、その若侍も

やはり、稽古事をしていました。

少し余裕のある武士は、何かの目的を持って励んだのでしょう。

下記の絵は、これらは、芸事を習うというより別な目的である。

従って、女師匠はこれ等を裁く才能も必要なのである。

 稽古所 下心ある男達で一杯。

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