文化11年(1814)
川村 54歳。
例年通り大広間で年始御礼、御流れ頂戴。
西丸御側衆と田安・一橋家年始御礼。
3月20日
夏足袋使用願提出。許可。
筑波山
4月11日
内々で息・釜五郎を日光・筑波へ旅行させた。
無許可である。将来、隠密として一人で旅をすることが有る訳なので
その為の準備である。もう既に20歳ですから、以前、高尾山へ
2泊3日で旅しましたが、もう大丈夫と判断したのでしょう。
色々と将来を考えています。
余談ですが、日光東照宮に豊臣秀吉が祀られているのは、
皆さんご存知ですか?
3代家光の頃に天海僧正が進言し、信長・秀吉、家康と3人を
祭神としました。
現代は、ホームページをみると源頼朝と豊臣秀吉を脇祭神としています。
みんな仲良くという事なのでしょうか?
5月14日
またまた大奥女中懐妊である。
諸事御近例の如く取り扱うべきという事がお達しで来る。
オットセイ将軍は困ったものですね。
6月16日
嘉祥の儀
熨斗頂戴。
7月5日
御黒書院にて峯姫様御道具完成との事で見分。
都合6回に亘って行われた。
そして、これらの品を大名に献上させるために、諸家の留守居役に
御品書きを渡すのである。
すると諸家の留守居は川村の元に来て、これらを作る職人・商人等
の紹介を川村に依頼し、そこで品を作り献上するのである。
9月13日
今日より諸家の御道具の献上が始まり、9月中に済む。
10月19日
献上物の飾りつけが始まる。
御黒書院から御城書院大広間まで御道具を飾りつける。
その数・220品、将軍の上覧ある。
11月4日
婚礼道具を小石川上屋敷・水戸殿へ送る。
川に沿って長屋が並んでいた。
その列が川に沿って真っ直ぐであった為に、江戸の名物となり
11月9日
峯姫様より諸道具納めに付き、御酒・御吸物・御菓子頂戴。
11月22日
峯姫様諸道具と共に、水戸殿へお引き移りあそばれた。
姫君(年齢に関係なく、こう呼ばれる。
嫁入と云っても、国許へ移る訳ではありません。
江戸の上屋敷に御守殿とか御住居に移るのである。
余談ですが、東大の赤門で知られる加賀藩前田家に降嫁した溶姫は
この少し前の事ですが、当然ながら本郷の前田家上屋敷に住んでました。
ところが、幕末風雲急を告げて、大政奉還した頃、江戸に住んでいては
危ないというので、加賀へ避難したそうです。
加賀の国境に来た時、加賀藩は姫のお供の入国は認めずに、姫のみ
入国させたそうです。
時代は変わるものです。
梨地葵紋松菱梅花唐草文様蒔絵女乗物
梨地と云うのが高級なものであったようです。
12代家慶の養女が婚礼の際、使用されたと思われる。
11月28日
御用召状来る。人事異動である。
11月29日
御賄頭仰せつけられる。表御台所頭も兼任。
非常に美味しい役職と云われています。
12月1日
昇進の御礼回り
月番の老中と若年寄に役宅に御礼の為伺う。
別段の御礼。(かなりの物を贈ったのでしょう)
御賄頭・表御台所頭の起請文提出。
要するに「御用達の商人などから金銭・物品など一切を貰いません。」
という事を記すのである。
それだけ贈収賄が横行していたのでしょう。
12月11日
御蔵御証文頂く。家禄元高と御足高は前と同じで役料が100俵
増えた。総合計で400俵になった。
徳川斉昭
12月19日
峯姫様御婚礼御用をつとめたので、ご褒美として白銀10枚頂く。
尚、嫁入した水戸藩主は従3位なので「御守殿」と称されて、
「入輿」(じゅよ)という表現を使われている。
御三家の場合は全て御守殿です。
もういちいち説明は要らないと云われそうですが。
これが、4位以下の大名が相手であると、「御住居」、
そして「お引移」という表現になる。
姫君の婚礼行列には、留守居や大番頭をはじめ、あらかじめ若年
寄などの中から、輿渡や貝桶渡などの婚礼の規式上の役に当たった
人々や、姫君附人が供連として嫁入りの行列に連なる。
この行列に加わらない幕府役人は、江戸城の台所前、玄関前や
下乗橋で姫の出輿を見送った。
婚礼当日の着用の衣服は従来「無地熨斗目、半袴」であったのが、
家斉息女の峯姫のときから「服紗小袖、麻上下」にかわっている。
尾張・紀州家へ嫁入した淑姫と同じこの板輿で入輿したと思われる。
これら御守殿の嫁入後に年間にかかる経費は、
大体1万両くらいであったという。
それに対して、幕府が化粧料とも云ったが合力金を年間3千両、
米400石をつけた。
従って、藩の負担にかかる部分が多いことは明らかである。
幕府の財政はこの辺から厳しくなっており、この峯姫の婚儀から変わっている
ケースが多くみられる。
化粧料で最大なのは、秀吉の正室・高台院ですね。
家康は、豊臣恩顧の諸将に大いに影響のある彼女に1万5千石の
化粧料を与えた。
水戸斉昭は、徳川慶喜の父である
37人の子供の内、7男として生まれた、この子を斉昭は溺愛し
一番目にかけて将来を嘱望したという。
長男は違いますが、2人目からは数字をつけて、二郎、三郎、以下同文
七郎まで付けられた。
ですから慶喜は七郎太。
ちなみに長男と慶喜の2人だけは正室(公家の娘)からの子です。
慶喜の書を見て、父・斉昭はその雄渾さに、「この子、只者に非ず」
と、溺愛した。
その幼年時の教育は厳しいものであった。
例えば、寝相の悪さを無くすために、枕の両側にカミソリを立てて寝相を
良くしようとしたり、読書を嫌い、それを罰するために大きな艾を当てたが
慶喜は、痛みなど我慢できるとして、それでも読書をしなかった。
到頭、斉昭は座敷牢を作りそこに押し込めた。
それには、慶喜も参り読書をするようになったという。
只本当に、勉強したのは20歳過ぎであったという。
幕末の有能な官吏で知られる川路聖謨に「水戸の若君らしく、もっと
勉強せねば、と苦言を呈されている。
父の斉昭は、幼少から慶喜に大きな影響を与えて、世に出そうとしたようである。
後年、慶喜が将軍に就こうとしたときに、大奥からの反対が強かったのは。
慶喜が大奥の経費削減を主張したこともある。
江戸城に宿泊の時、夜、毛布2枚だけしか与えられず、その理由として、
経費削減ですからと云われたそうです。
それはともかく、慶喜は天璋院から嫌われ勝海舟が云うように「天璋院は、
最後まで慶喜が嫌いさ」という言も有るが、父・斉昭の問題もあったでしょう。
斉昭は、好色で知られていて、慶喜の御台所の上臈(京からの付き人)
を手籠めにしたり、或いは、大奥の女中をもそうしようとしたことが、
大奥から総スカン食っていました。
そういう事も有り、将軍家定、大奥からは親子共々徹頭徹尾嫌われたようです。
或る時、慶喜が登城した時、家定は奇声を発して小刀を抜いて、近習達が
怯えて逃げるのを楽しんでいた時、慶喜が現われると、家定は「鬼が来た」
と、怯えたそうです。
これは、大奥が水戸家が幕府を乗っ取るというように思っていたことも有り
警戒されていたようです。
元々、水戸家は黄門さま以来の尊王論で知られていましたので
その面から水戸家には将軍の座を渡したくないというのが、
底流にあったのではないでしょうか?
天璋院
度々登場しています御台所付御中臈を勤めた村山ませ子は、
この絵を見て、2つだけ合っています。猫が好きであったことと、
謡いが好きで謡い本をよく読んでました。あとは、出鱈目です。
この絵は、明治になってやまと新聞社がシリーズで出した
読み物の中で書かれました。





