寛政12年(1800)
川村40歳。
例年通り、城中で年始御礼、御流れ頂戴。
田安・一橋家年始御礼。
1月15日 5女誕生「鍬」![]()
長女が12歳になるから、奥さんの名も年齢も判らないが、
その時代では高齢出産でしょう。
しかし、この奥方この後も頑張るのです。
6月16日
嘉祥の式
今年は、鶉焼を頂戴した。
この年の年間勤務実績を自己申告。
今年は、痔疾の為、3日欠勤。
これからも悩まされます。
7月8日
例年通り時服一つ、白晒1疋頂戴。
9月21日
判鑑改めたので、31枚作り、各門及び御賄所、両丸の御細工方へ2枚。
各門で番人が判鑑帳を作り確認しているのかもしれません。
そして、賄所にも出している。昼食時には飯だけ支給されていたが
判鑑も出して、確認して飯を貰っているのでしょうか?
判鑑
そして、大奥は飯だけではなく、菜も作らせていました。
毎日1日3食、数百人もの食費だけでも,かなりの予算が
必要になったでしょう。
中奥よりは大奥の方が美味しいものを食べていますね。
10月2日
玄猪の日 白と黄の餅を一つずつ頂戴。
12月1日
例年通り、御召卸を拝領。
例年通り、本丸、西丸から金子頂戴。
また、大納言様(当年8歳の将軍世子・家慶)より銀2枚頂戴。
寛政13年(1801)
川村41歳。
例年通り御目見えし御流れ頂戴し、西丸の御側衆部屋、
並びに田安・一橋家伺い年始御礼。
4月事件が起こりました。
奥向きの掃除不行き届きがあり、御沙汰有り。
御目通り差し控え、組頭と世話役に御目見え遠慮。
掃除した者は、「押込」
押し込みとは、一室に閉じ込めて出入りを禁じる処分。
そして、1か月後、孰れも処分解除。
結局、川村は掃除の者170人(御家人)を監督して掃除させているが、
今回の様に処分される。
それが重なると、罪は重くなってくるのである。
6月13日
大納言様(家慶)の御旗と御馬印が西丸御座の間にお飾りになり拝見。
ちなみに川村家の旗印と馬印も定めた。
川村家馬印・旗印
6月16日
嘉祥の日 麩を頂戴する。
7月8日
例年の如く時服と白晒頂戴。
毎年7,12月に召物を頂戴している。そして、金子も頂いている。
現代でいう賞与の原型であるのでしょう。
年末になったので、恒例のお召卸と両丸から金子頂戴。
そして、12月6日吉報です。
兄が昇進
です。
職禄100俵の漆奉行から200石の御膳所御台所頭へ出世します。
禄が倍増です。大変うれしい事ですが、御礼に伺う先々で、先年突然
出奔した我が長男の不始末を見逃してもらった方のお礼に忙しいです。
なにしろ、御庭番で最初で最後の出奔で、結局、最後まで判りませんでした。
何も無く終わったとういうのは、当然ながら挨拶だけでなく、土産物として
持って行った物が大きく効果が有ったという事です。
娘の嫁入りの為にせっせと貯めていたお金が兄弟揃ってゼロになりました。
その結果、この後の事ですが、娘の縁談話が有り、川村は公儀へお金の
借用を願い出るようになります。
