江戸城・数寄屋橋門
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寛政11年(1799)

川村39歳。

例年の如く城内で御流れ頂戴し、田安家一橋家へ年始御礼。

 一橋家屋敷跡
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日記では触れてないが他の式日も紹介します。

1月2日

掃初之式

かって老中が箒を持って手早く将軍の座所を掃除したことから始める。

重きも軽きも有のままに打ちふるまへる有様」だったという。

1月3日

判始

老中奉書、判物(重要書類)の作成開始日「1年の御式のまたなきもの」

と云われたほどの重要な日。


25日

御拳之(将軍の鷹が獲った白鳥を振る舞って下さる宴に出席。

麻上下にて、お料理、御吸物頂戴。

早速、宿直の御側衆に御礼言上、


8代吉宗の頃行われた鷹狩の様子を伝える「享保小金中野牧御鹿狩之図

に鷹狩りの際の物々しい様子が描かれている。

動員された武士や勢子達の動きは軍事訓練と同じであり、支配者としての

将軍の威勢を示し、民情視察を兼ねた。

その時動員された人数は5万人であるという。

この時の狩りでは、鹿800頭、猪3頭、日本狼1頭、雉10羽が

記されている。

ニホンオオカミがその当時生息していたのです。


又、捕獲した鶴は塩漬けにして朝廷に送られたが、

その道中は「御鶴様の通りとされた。

朝廷では、正月17日に儀式で鶴を調理して天皇に見せる

鶴の包丁」という行事があった。

 ニホンオオカミ
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荒川区の・観音寺は「鶴御成り」の寺で有名で、寛政10年(1798)

11代家斉は、この寺を御膳所としたところから、歴代の将軍が幕末まで

利用した。寺では、その都度、名産(三河島菜」を献上したという。

広重の「江戸名所百景」にも描かれていて、丁度この辺は、湿地や

田畑が広がる一帯は絶好の御鷹場であった。

 箕輪・三河島 広重
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6月16日

嘉祥の式

阿古屋餅を下さる。


7月8日

昨年と同様時服御帷子(但し、浅黄黒御紋付)と白晒頂戴。


10月3日

淑姫様、尾張家御入輿、献上の御道具を将軍が上覧、

自分らも拝見。

  婚礼道具 初音の調度(国宝)
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この当時、幕府も大名の財政は破綻状態であった。

しかし、このような婚礼を大名は受け入れる為に、当時、幕府は

大名に対して天災などの復旧を目的とした利子が無料で

10年返済とした

大名拝借金」を行い大名も利用していたが、其れとは別に、

親族の大名に対しては「勝手向難渋」を理由として、

特別に貸し付けをしていた。
この峯姫の婚姻にも3万1千両が掛かっている。

当時幕府の財政支出は350万両であり、貸付金は17万両にのぼった。


11月12日

淑姫様御入輿に付き、無地の熨斗目と半袴を着用し、

恐悦申し上げる様にとのお達し。

              こちらが熨斗目。右腰の部分に注意。
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ここで川村家に大事件が発生。

本家の長男・勝蔵が行方不明になったのである。

とりあえず、病気欠勤届を出し、本当の事は御庭番衆下部屋へ届けた。


旗本が行方不明になるという事はあり得ないことである。

一晩妾宅に泊まっただけで、処分(罷免・士分剥奪・財産没収)も

あり得る話である。

手を尽くして探すが見つからない。

やむなく4日後、出奔届を出す。

吉宗が綱紀粛正のために創設した御庭番の家筋であるから、

この時は、もう、「御召放」解雇も覚悟したでしょう。

その時の届けには、病気で引き籠っていた所、快気も近くなった所

突然、何の沙汰もなく行方不明になり、探したが、

行方相知れず。とある。


老中へ「差控伺」を呈上、しかし、其の儀に及ばずという事で済み。

引き続き探すようにと云う返事であった。

10日に一度報告書提出の義務がある


  板輿 他の姫と同じようにこの輿であったろうと思われる。
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姫様の御入輿につき献上の酒肴を頂戴。

12月1日

例年通り、御召卸を拝領。


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そして、自分と長男・釜五郎の花押と実名を

考えて貰い、作成。

今日から用いる。















年末、例年通り本丸・西丸から金子頂戴。

この間も行方不明の調査報告を10日ごとに提出しているのである。

これは、そのいう御定法によって決められている。

結局、行方不明のままである。

結局見つからずに、家系図には一人だけ死亡とかではなく、

出奔となっている。

そして、この後も本家の騒動に巻き込まれるのである。