江戸城・坂下門を望む
メタボンのブログ

御庭番は当初17家が任命され、途中26家になり、

幕末では18家であったという。

この内から、栄達して勘定奉行・遠国奉行などの諸太夫の役職に

就任した家が7名いる。

今回の主人公・川村脩富は、その内の一人である。

そして、彼の子も又、栄達し、その子(孫)は御庭番に関しての

貴重な証言をしてくれたのです。

それは、かなり先のお話です。


吉宗の遺命がある。

それは、「御庭番家筋の者どもは、役目柄なるべく一統同士で

嫁取り・婿取りいたすように」というものである。

従って、それからかなり時間が経過してるので、あらかた、

親類になっていると思われる。


彼らは、当時の武鑑に御庭番として収録されており、間諜でありながら

氏名、住居はもとより収入や経歴に至るまで公開されていた。

通常、桜田御用屋敷と呼ばれる屋敷、別名比丘尼屋敷とも云わる

屋敷の長屋に住んでいた。

 右は外桜田門
メタボンのブログ

ここは、大奥で将軍の寵を受け、将軍が亡くなると髪を下し、

位牌を貰い生涯その供養をする女中たちの住処であることから

比丘尼屋敷という名が付けられた。

又、大奥の御上臈や御年寄が病気になると、ここで静養する。

その際は、必ず、人が派遣され面倒を見るようになっていた。

上臈・お年寄だけの特権です。

ですから、「花岡休息所」などとなっている。

ここの警備も兼ねているのです。


  文政7年(1824)の桜田御用屋敷の図面。

武鑑によると、この時代の御庭番は、合計14名であったという。
メタボンのブログ

吉宗が御庭番に与えた特権がある。

それは、綱紀粛正を旨とし、役人の不正を無くすために、

江戸城内を自由に立ち回る事の出来る権利である。

大奥、奥祐筆部屋、御目付部屋以外であれば、

何処でも出入可能なのです。

従って、あの広い中奥の勝手を知っているのは間違いない。

間違えても迷子にはならないのである。

番衆狂歌にある。

[御玄関の上を獅子の間の御徒番 天井虎の間御書院番」

こうして必死に場所を覚えなくても大丈夫なのです。


幕臣としての身分を隠し、遠国に実情を調査に出かける旅行のことを

遠国御用」という。

他人はもとより親兄弟と雖も職務上の秘密を漏らさない」旨の誓紙を

就任時に提出、隠密調査中は、公式には病欠扱、遠国御用のたびに

立ち寄ることになる京都・大坂には、毎回御用を命ぜられた御庭番が

立ち寄る御用達町人が、御庭番の隠密調査を支援するための

一種の現地スタッフとして配置されており、御庭番は初めての御用でも、

彼らの助けを得て無事に任務を果たすことができた。

やはり、遠国御用を経験していないと、出世の道は遠かったようです。

 遠国御用の時の御証文
メタボンのブログ

ただ、実際には先輩や同僚の意見などを聞いて、報告書をまとめたり

していたようです。

ですから、内命を受けるとすぐ旅立ったという事は嘘です。

十分、先輩や長老の意見を聞き、帰って報告書を書く時も同様です。

何しろ、御庭番は一族の様に婚姻で固められていましたから、

他人事ではありません。