家達     慶喜
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先ず、静岡藩が最初に行ったのは会津藩もそうであるが

学校の設立であった。

明治元年(1868)静岡学問所を設立、漢学や国学以外にも、

英仏蘭独語のコースも有り、農民町人にも門戸が開かれていた。

運営者は、美作津山藩の津田真一郎である。

津田は幕末、幕臣に登用され、同じように登用された西周、加藤弘之

などと後に西洋の思想や学問を広めた一人であった。

  沼津兵学校跡

沼津【兵学校跡】城岡神社

兵学校は、旧幕府陸軍を母体にしており、陸軍士官学校のようなもので

だったが、それに医科などを加えることにより、総合大学の形にした。


教官も旧幕時代に西洋経験の有る者が多く、特に数学においては

特に優れていた。

そして、軍事教育についても時代の先端を行き、多くの各藩から

留学希望が殺到した。その為、学校は、英学やフランス式の訓練を

教授する人を派遣したが、その数は60ヶ所170人いた。

これは陸軍はフランス式、海軍はイギリス式に統一するという

政府の政策があったためでも有った。


薩摩藩にも教員が派遣されていたくらいであるから、その教育水準の

高さが判る。


こうした状況を見ていた新政府は運営に欠如していた運営基盤に

充てる人材を静岡の学校に求めたのである。

旧幕時代、徳川幕府を実質運営してきたのは勘定奉行所であった。

ここの官僚組織が運営したと云っても過言ではない。

ここは積極的に人材を登用し、出世を願うものはここの門を叩いて

栄達を狙ったのでした。

従って人材の宝庫でしたが、それと同じに静岡の藩学校は

人材に満ち溢れていました。


新政府は既に経済界で才腕を振っていた渋沢栄一に続いて、前島密や

西周や津田も引き抜き、彼等は上京する。


こうした結果、教授陣が不足し、もっと大きな理由として多大な経費が

掛かる学校を静岡藩は学校を政府に献納した。

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そして、まもなく明治4年廃藩置県を行う。

之により、大名家が消滅して藩主と藩士との

主従関係が無くなったのである。

大名は華族として政府に残ったが藩士は野に放り出されて、官吏となるか

在野で生きるかの選択を迫られた。


その結果、官吏へと進んだ人の数は明治10年(1877)では、官員総数・

5200人の内、1755人が静岡藩士であった。

官員の3割を占めていた。

しかし、旧幕臣の数3万人の内の1割にも満たない数である。


これら官吏は、高級官僚である勅任官や奉任官は薩長土肥が

占めていたので、その下の判任官などの中級官僚であった。

この仕組みは、以前「武士の家計簿」でも記したように、上に厚く、

下に薄くの典型的なものであり、西郷隆盛は、こうしたことを見て

その為に維新を起こしたのではない。と嘆いた。

  明治五年鉄道開通 汐留
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経済界で著名なのは渋沢栄一である。

大隈重信に請われて大蔵省入省、大蔵権太丞まで進み、3年で去り、

以後は民間で名を馳せた。

  江原素六


教育界では、福沢諭吉と江原素六である。

江原素六は以前紹介しましたが、極貧の中で育ち、楊枝削りで生活を

立てていた御家人です。

軍人として最前線で官軍と戦い、後に、教育者として麻布学園を創立した。


福沢諭吉は、慶応大学の創立者としてあまりに著名です。

終始、在野にあり教育者であった。


成島柳北 姪孫に俳優の森繁久彌。


旧幕臣たちは、結局、明治の言論界にあって政府に

戦いを挑んだと云える。

名を挙げると、成島柳北、栗本鋤雲、福地源一郎らである。

なかでも成島は反政府の論陣を張った。

旧幕府の御家人の家に生まれ軍人として幕軍のフランス式化

に取り組み一方、官軍とも戦い外国奉行も務め幕府崩壊を迎えた。

従って、反政府の舌鋒は鋭く、反政府の一大陣営となった。


その下地となっているのは、江戸っ子の将軍のお膝元で

あったという矜持であったでしょう。

ですから、市民の間では、その内、「徳川さまが戻って來るよ!」

というのが政府批判の素地になっていた。


しかし、政府も讒謗律などの弾圧の手段を取り、成島も逮捕され

禁固刑を受けるなどしたために下火になって行くが、

しかし、政府批判は西郷の西南戦争が終結するまで収まらなかった。