家達の住居 宮ヶ家御住居(別名・田安門と云われた)
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或る日、藩立静岡病院に行った時は、院長からビスケットを貰い食べた。

それを後で聞いた女中は「異様な物ビックリマークを食べた、と。

毒消しの為に護符を家達に上げたという。

又、旧来許されていなかった肉食も、牛肉を団子にして吸物に入れたり

して古い慣習は打ち破られようになっていた。


病院の医師の証言によると、両上様(慶喜・家達)とも、外出の時も

先払いすることもなく、5,6人がお供するだけであり、3千石くらいの

形式で質素な生活であったという。


明治2年、領内を視察した時の話がある。

黒漆の乗物に乗りお供は50人。

先触れとして、通る30分前には「下に居れ」と声を掛け、道の両側に

筵を敷き人々は座り合掌して迎えた。


宿泊の際は、回船問屋は藩主を迎えるに当たり、雪隠を改良し、

畳を敷いたとして、それが大評判になった。

まだ、この頃は、領主に対する古くからの観念が未だ残っていたのを

十分に感じさせる。


翌年も視察は行われ、茶の栽培を試みていていた牧の原を訪れ、

文武之余暇開墾致し気の毒に御存被成」との上意を与え、一同

感激したという。

この時出された通達によると、食事は「上下共一菜」で、献上物は不要。

飯は、米でも麦でも構わないとしている。

また、御目見えを希望するか藩士は事前に名を書いて提出し、

沼津城で謁見した時は、皆平服であり簡素化されていた。


この途中、町奉行を務め天保の改革で辣腕をふるい、妖怪と称され

後に失脚した鳥居耀蔵も謁見の中に加わり、感激し

「大君御領内御巡視俄かに拝謁の命あり」とある。


明治4年(1871)廃藩置県が断行され、大名は華族としてその地位を

保証された。

それに伴い、家達も東京へ移住を決める。

事前に「見送堅断」としていたが、多数の藩士が沿道で見送っていたという。

お供は8名、荷物は長持12棹であり質素なものであった。


その後、翌5年には宮ヶ崎住居も整理され、残っていた家臣49名、女中

に対して解雇を行い、それぞれ20両から360両までの報奨金が出された。

東京では後に赤坂の元人吉藩邸に移り、その離れには、天璋院、本寿院

実成院も侍女たちと住んでいた。


直ぐ近くには勝海舟邸が有り、のちに海舟の長男の妻となる

米人のクララは、海舟邸に住んでいて、よく行き来していて、

家達一家とも交流し、この当時の家達の印象を「威厳のある風采の方で、

色が黒く、濃い赤味がかった鷲鼻、細い目、小さい弓型の口」と記している。


明治10年には、徳川家には千駄ヶ谷に引っ越した。

今の千駄ヶ谷駅の南に位置し、10万坪を越えたという。

現在の東京体育館周辺である。


明治15年(1882)、近衛家の長女と結婚。

明治17年華族令により、公爵に列せられる。

公爵  五摂家、徳川宗家、国家に偉勲の有る者

     他に島津・毛利・三条。

侯爵  精華家・御三家・大藩諸侯(15万石以上)

伯爵  堂上家・御三卿・中藩諸侯(5万石以上)

子爵  堂上家・小藩諸侯(五万石未満)

男爵  維新後家族に列せられたもの、国家に偉功のあるもの。


あくまで禄高によって決められた。

旧幕の様に、家格は問題とされていないのである。


明治20年明治天皇が千駄ヶ谷の徳川宗家を行幸、御水尾天皇

以来261年ぶりの行幸であった。


そして、慶喜が静岡から東京へ移住したのが、同じ明治20年。

そしてかっての居城である皇居(江戸城)に明治天皇に謁見したのは

明治21年である。

一度は朝敵の汚名を着せられたが、晴れて、名誉を回復した時でも

あった。

明治35年には慶喜も同じ公爵に列せられ、やっと独立した一家で

あることを認められた。


慶喜は、静岡滞在中、宝台院に隠遁していたが、その間、ずっと、

宗家から経済的にも宗家の管轄下に置かれていた。

定例御廻金」「御賄料金」という名で送金がなされ

生活費に充てられていた。

家で使う召使いなども宗家で任命を行っていた。


  静岡・宝台院

徳川家康の愛妾・西郷の方の菩提寺でもある。


家達と慶喜は26才差であった。

幼少の頃は問題無かったようであるが、家達が成長するにつれ、

慶喜は徳川を滅ぼした人、自分は徳川を立てた人」と、公言していた。


従って、互いに神経を使い、慶喜は、全て宗家へ譲渡してしまった為、

宮中へ召される時は馬車を宗家に借りたり、子供の結婚などでも

宗家の意向を聞いたりしていたようである。


大田区洗足池にある勝海舟の墓

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ただ、宗家の方でも同じ掛軸が掛かっていたりするので借りたり、

或いは衣冠束帯が無いので田安家に借りたりとしていたようでもある。

勝海舟は間に立って苦心をしていたようである。

勝の言によると「元来人に可愛がられる。学問も御有りで正直である。

勉強家だからお上(天皇)にも目を掛けて下さる。

勝の墓に在る。

その花立には、「昭和13年4月徳川家達公家名相続

70周年墓参記念」の文字がある。


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又、慶喜ともよく交流が有ったそうで、居住していた文京の六天屋敷にも

よく伺っていたようである。

勝の臨終を伝えられると、慶喜は、無印の丸の付いた家紋がついた

(遠慮して葵紋は付けなかった)

馬車を走らせて、勝の臨終に駆け付けたという。

  慶喜 六天屋敷
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慶喜は、幕末の事については沈黙を守っていました。

唯一残っているのが、晩年孫に囲まれていた時ですが、

孫に「どうして、大政奉還をしたの?」と聞かれた時、しばらく沈黙して

あの時は、誰がやっても同じことになったのだ」と、答えたと云います。

貴重なる証言かもしれません。

やがて慶喜は死を迎える。

大正2年(1913)である。

最後の将軍であった。