3代家光
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 家光は、幼少の頃から弟・忠長と比較され、特に、生母から

激しく嫌悪され粗略に扱われていました。

生母の扱いを見て、家臣は次の跡取りは弟・忠長と思うのは

当たり前です。

秀忠は、奥さんに頭が上がらなかったそうですから。

有名な話で、家康がある時絶世の美女を悪戯心で

秀忠の許に送ったそうです。

その時、秀忠少しも慌てず、其の儘朝美女を送り返し、

さしもの家康も「わしもこの点はあ奴に敵わぬ」と

感嘆したそうです。


或る時、家光の病気見舞いに珍しく家臣が集まり見舞をしていた時、

忠長ご発病の一報が有り、それを聞いた時、見舞いに来ていた家臣は

一斉に席を立ち、家光の薬袋などは散乱していたと云います。


是を見て、春日局が家康に直訴し。家康が公式の席上で、家光(竹千代)

を呼び寄せ上座に座らせ、忠長を下座に座らせて、席順を示し、跡取りを

宣言したことは有名です。

竹千代は徳川家の嫡子の名でもあります。

秀忠の跡取りの時も円満ではなく、秀忠が関ヶ原の戦いに遅参していた

事もあり、跡取りを巡って紛糾し、家康も三日間考えたという一幕も

有ったと云います。

やはり、大名、特に天下の跡取りですから、色々あるのは当然です。

 増上寺徳川家霊域 明治17年
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話は増上寺の霊廟に戻ります。

増上寺は、現代、正月の風物詩の箱根駅伝でも寺の前を通過します。

あの山門は家光の頃造営されたものですから400年近くなります。

立派なものです。日本建築水準の粋を示すものです。

走る人箱根駅伝の場合は、1区であの辺で1㌔3分を切るかどうかで

レースの展開が予想付きます。

(失礼しました。箱根駅伝と間違えました。)


とにかく、あの山門の前まで当時は海が来ていたそうです。

そして、寺は小高い丘になっていて、その丘を切り崩して、

海を埋め立ててその土でもって、今の増上寺門前町を形成しました。

埋立地であるから、凹凸があるのはやむを得ないのですが、

散々意地悪をされた生母の霊廟が父(尊敬はしてなかったようですが)の

霊廟より高いのをみて大激怒したのです。(三つ子の魂百までもという)

やむなく、建物の高さを高くすることにより、解決したそうですが、

長年掛かったそうです。

それでも、変えないとダメであったのでしょう。

三解脱門
徳川家の菩提寺は、増上寺と寛永寺の2つであることは知られています。

途中から将軍の葬儀を交互にしています。

葬儀の取り合いが大変であったようです。

ですから、自分の所で葬儀をしていないでも、戒名だけは贈り

そしてそれぞれ供養しています。


しかし、それぞれの御霊屋の管理をするのは、2つの寺から別当の職を

与えられた寺で行います。

増上寺の寺領は、2万4千石です。

大名と同じで、しかも格式は比較にならないくらい高いです。

御別当寺は、それぞれ2千石内外の寺領があり、名を内礼僧と云って、

江戸城でも白書院で将軍に逢う事も出来たのである。

ですから、その威勢は大したもので、別当首席の僧は御老僧と呼ばれた。


別当寺の明細は下記の通りである。

安国殿(家康)     安立院

台徳院(2代秀忠)  真乗院

文昭院(6代家宣)、慎徳院(2代家慶)  宝性院、恵眼院。

有章院(7代家継)、惇信院(8代家重)、 瑞蓮院

昭徳院(14代家茂)  通元院

崇源院(秀忠夫人)、天英院(家宣夫人)、広大院(家斉夫人)  最勝院

桂昌院、月光院、天親院、         仏心院


ここで不思議なのは、家茂夫人(静寛宮)が一人だけ、家茂と御合殿なのです。

ほかの夫人は女性だけの廟であるのは、芝も上野の寺もそうであるが、

何故か遺言により唯一合祀である。


歴代将軍の内で15代慶喜だけが神式で谷中霊園にある。

慶喜の葬儀の時は、江戸市民は非常に将軍のお膝元であるという意識が

強かったことも有り、江戸の職人たちは法被を新調し、威儀を正して

「最後の将軍」葬列を見送ったと云います。

  徳川慶喜


再び余談ですが、ここで奥さんの名称について。

将軍の妻は御台所、将軍世子夫人・御三家・御三卿の妻は御簾中。

大名10万石以上は御前様、それ以下は奥方。

町人の場合は、山の神?

奥方から変じて「奥さん」です。

奥に居て、玄関の声が聞こえない所に居るから「奥方」です。

玄関で「こんちわ!」と云われ、「はーい」というのは奥方ではいいません。