江戸城 左は西の丸大手門 右は書院門
二、三の側は狭い。しかし、四の側はもっと狭く、ここは御目見え以下の
女中が雑居しています。三,四人くらいであったようです。
賑やかで良いですね。
これも花嫁修業の一環です。
帰れば大奥帰りとして大手を振って嫁に行けます。
勿論、髪は椎茸髱(たぼ)です。
里帰り
長局は、部屋毎に井戸が設けられ板敷きの上に竈が置かれていた。
井戸を使用できるのは午前6時からである。
夜は午後6時まで。
蓋をして錠を掛けます。自殺防止です。
老女の補佐役として、御客会釈(おきゃくあしらい)と、中年寄がいる。
御年寄、表の老中に匹敵する要職である。
御台所に代わって増上寺や寛永寺に代参する以外は、千鳥の間の
煙草盆の前にドンと座り、諸役を指図する。1歩も動かない。
午前10時から午後4時まで勤務。
大奥の実力者である。
70畳も有る自分の部屋から執務室の千鳥の間に来るときも、
2人の女中に前を歩かせ制止声を掛けさせ「御通りあそばす」として
長い長い廊下を歩いた。
その権勢は強く、時には幕閣人事や政策にまで口を出したのもいる。
御三家や御三卿の御簾中が登城してきても、他の女中の様に
頭を畳にすりつける事も無く、礼や話し方もへり下る事も無かった。
又、御年寄が病気になりますと、上から毎日添番1人、お小人1人を
自宅へ或いは養生所(虎の門近くにあった)へ詰めさせます。
上臈も京から来てるので自宅は無いので、養生所に行き、
同じように上から人が付けられます。
中臈以下は、添番等は無く、自宅下がりです。
御客会釈(おきゃくあしらい)は、将軍付だけで、御中臈を
長く務めると進む。
奥と御広敷と2人居ます。
御留守居の大奥見廻りに同行します。御留守居は月に1度見廻ります。
別にどうという事は有りません。
将軍が大奥に来た時の執り成しや、御三家・御三卿の接待、
地位は高いものであるが、権力は無い。
しかし、年寄へのコースの一つ。一度でもこの職を経ないとダメです。
御年寄・瀧山は年寄りになる時、この御客会釈を勤めていなかったので
3日間だけ勤め、年寄に昇進した。
奥女中の話では、御手付女中が結局宿せないで、年を取った時に、
名誉職として一人はこの職に就いたようである。実権は無し。
通常4人が5人になる。
中年寄は、御台様、御簾中(西丸の世子夫人)、姫君付で、
将軍や世子にはつかない。4人でした。
年寄りの指示を受けて行う。年寄候補である。
いざという時は、御台の身代わりにもなる。
中臈頭が2人、これは中年寄の補佐です。
御年寄には、将軍、御台所、将軍生母付といるので数人いる。
江戸後期には、その内の一人が「御用掛」として、万事を差配した。
御用掛は老女の進退をも左右できるほどの権威を持っていたという。
表の将軍の最側近であり、老中の上を行く力の持ち主である
御用取次と政事向きの話もしたという。
中臈は、将軍や御台所の世話する役で、将軍付の場合は
側室となるので若い女中が多かった。
御中臈
23人居ました。
別に上様(将軍)付が、7,8人居ました。
将軍・御台所・大御台・姫君の世話係。
旗本の娘がお小姓を経てなる。
但し、将軍付の中臈は御年寄が合議の上決める。
その他の女中も将軍の寵愛を受けると、立身して御中臈となる。
あとは、児を授かるかどうかですし、その子がどのようになるかで
自分・家族の運命が大きく変わります。
中臈の勤務体制は、全員を3分にし、出番、お袖、非番とした。
お袖は、午前10時から午後2時まで、一旦部屋に帰り、夜にまた仕事、
御台所の傍には常に2人付き、御休みの時にも、中年寄りが一人、
御中臈が一人側に伏し、他の一人は下段に寝た。
将軍の手が付くと「御手付中臈」(汚れ)、それ以外の中臈は
「清めの御中臈」と呼ばれる。
その地位は、御客会釈の下で、御次の上である。
部屋を賜るのは、筆頭の者だけで、他は、世話親の部屋に相部屋である。
勿論、将軍の種を宿したら「お腹様」と云い、部屋を賜る。
この「お腹様」について、興味深い記録がある。
平戸藩主・松浦静山が「甲子夜話」に記している。
静山が奥詰医師に聞いた話では、
中臈が将軍の子を宿し、児を産む前と、産んだ後、
そしてその後の話である。
妊娠すると、表使の女中の中から担当が決められ奉仕する。
腹中に子がいる場合、医師が診察する時は、敷居を挟んで女中を
上座にして診察する。
これは、腹に居る「御子様」を尊ぶからである。
しかし、出産すると、女中は下座になり診察を受けるのである。
そして、一番肝心な生まれた子は、表使いの女中が将軍の子を
育てる部屋へ連れて行き産婦は乳をやるどころか。
一切触れる事が無くなる。
部屋をあてがわられ、何人かの女中の世話を受けるだけだという。
そして回復すると元の中臈になる。
もし、将軍の後継を産んだ場合、これは、大変なもので一家全てが
その玉の輿に乗れる。
「御内証の方」である。
父は300石くらいの捨て扶持だが、兄弟は大名の場合もありうるし、
多くの実例も有る。
こうした大名を、「蛍大名」と呼ぶ。
娘のお尻の威力で輝くからである。
或いは、子供がどこかの藩の藩主としてなった時に、
藩主生母として藩に行き、格式が付く。
要するに、単に将軍の子を産むだけでは、玉の輿にはならないのである。
前と後では随分扱いが違うのである。
一例を、3代家光がお湯殿の子を設けたことは以前紹介しました。
その家族が受けた待遇です。
お夏の方が、お部屋さまになると同時に、父の弥一郎は
初め300俵を賜った。
次いで、子の綱重が甲府城主(甲府宰相です)になった時に、
後の6代将軍・家宣の父です。
綱豊は、生母の身分が低かった為に、出生後、一旦、養子に出され
その後、跡取りの無かった甲府家に呼び戻されて跡を継いでいます。
ですから、かなり不安定であったことが判ります。
名も変えて藤枝摂津守とし、甲府家の老臣になり、又、
お夏の方の弟も家臣となり父の死後、5千石を賜り家老となる。
それから7代あとの当主は、天明5年(1785)吉原の遊女・綾衣と
心中した。
世間は「君と寝ようか5千石取ろか、何の5千石君と寝よ」
と謳われた。
藤枝家は断絶である。
6代・家重
子の6代家重は、5代綱吉の生類憐みの令を廃止してはならぬという
父の遺言が有ったにも拘らず、廃止し世の喝采を浴びた。
法名は、「文昭院殿順蓮社清譽廓然大居士」
続く

