将軍着物 小紋染羽織
将軍は毎日10時になると、ギョケイ(御剣)脇差を持ったお坊主が
先に立ち、御付中臈は手ぶらで後から来る。
大奥に入り御台所以下の迎えを受け御年寄4人、中年寄1人、
中臈頭1人、中臈6,7人を従えて仏間で御台所と一緒に
仏間で先祖の御位牌を拝礼した。
それから天璋院の所に行き拝礼、御対顔の時は、将軍も褥は無し。
天璋院は褥を乗り出して「ごきげんよう」と云う。
御鈴廊下には御目見え以上の女中が並び「惣ぶれ」と称する儀式が
行われた。
これは奥泊まりをした日でも、一旦中奥に戻り、そして、
大奥へ入ってくる。
朝の「惣触」の時は、裃姿であったようです。
それ以外の時は、着流しです。
また、「総触」の時は、御台は足袋をはきます。
夏などは終ると脱いでしまいます。足袋は一日限りです。
絹ではなく木綿足袋です。
和宮は公家の習慣で、足袋は履きませんでした。
中奥と大奥の間には板に銅をもって包んだ頑丈な塀が有り
厳重に監視されていた。
御鈴廊下には、御錠口に鈴が有り、長い紐が付いていて、
その紐は太い萌黄の打紐でこの鈴を鳴らせば将軍の御成りであり、
女中たちは絶対それに触らないように申し渡されていた。
女中の証言では、「お暇ではすまない」というように書いてある。
果たして、どのような罰が有ったのでしょう。
夜になると上下の廊下の2つの紐を繋いだそうです。
その長さ100mくらいになったといいます。
暗い中、もし、間違えて足を引っ掛けたら大変です。
御鈴廊下は最初は上の廊下だけである。
下の廊下が出来たのは、10代将軍の頃であるらしい。
下の御鈴廊下は非常口として使用されたらしい。

将軍が来るときは、お小姓と小納戸が付いてきて、
大奥からは御年寄りと表使がいた。
此処で送迎するとともに、御刀の受け渡しの時、もし、その際、
御小姓と表使の手が触れでもしたら、又、御錠口の外へ
爪先でも越えたら処罰されたという。
御錠口は、午後6時になると締められ内外から錠をおろした。
将軍の奥泊
将軍は何時でも来れる訳ではなく、月のうち半分くらいの日であった。
それは、紅葉山参拝や歴代将軍や近親者の忌日や命日の日は
大奥へ来ることは出来なかったからです。
「御精進日」といいます。
この日は、食事の方も精進料理です。酒や肉は禁止です。
13代家定は、体が弱かった所為か、月の内1度か2度で泊りが少なかった。
御中臈の「しが」というのが相手をしていた。
この中臈は御三の間から寵愛を受けた為に中臈になった。
天璋院より、泊りの回数は多かった。
天璋院の所へ1回行ったら、2回来てくれというような女性であったらしい。
余談ですが、御精進日は魚肉は出ません。
天璋院(篤姫)は、犬の狆が好きであったようですが、
旦那の将軍・家定が嫌いであったので、猫を飼っていたそうです。
そして、その猫の食事ですが、御精進日には普段食べている魚が
無いのでその代わりに泥鰌と松魚節(かつおぶし)買うのですが、
その費用として年に25両掛かったそうです。300万円くらいですか。
天璋院が食事する時は、猫の膳も一緒に出し瀬戸物の鮑貝に
似たものを黒塗りの膳に出したそうです。
猫の係は3人であったそうで、交尾期になると外へ出てしまうので、
探すのに大変であったようでした。
猫の名は「サト姫」です。勿論雌です。
毎年、5,6匹子を産んだそうです。
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大変行儀がよく、偶々、女中が食事をしている時来て、何か上げると
自分の所に帰って食べたそうですし、また、来てはいけない部屋へ
入ってきたりすると、女中が「お間違いお間違い」というと、
戻って行ったそうです。
首輪にも銀の鈴をつけて、紐は1ヶ月で変えたそうです。
大奥の場合、このペット(犬の狆が流行していました)をうまく使う事が
出世の糸口を掴むことなのです。
もし、子猫が生まれたら、その子猫を頂戴できれば近づける事も
可能になるからです。
ですから実力者の周りは、そういう人が多くいたそうです。
夏に蚊帳を吊るのですが、一度、猫が蚊帳の縁に小便をした時は、
洗うやら香を焚くやら大変であったそうです。
ただ、将軍には猫を飼っていることは内緒であったので、
御成りの時は隠したそうですが。
この証言をした女性は猫係であったらしく、係が3人居たそうです。
三田村老の本の中では楽しそうに語り笑っているのが印象的です。
浮世絵 ネズミ除けの猫
奥泊りの時の手続きとしては、宵の内にお小姓を通じて奥へ連絡する。
小姓が御錠口で鈴を鳴らし、奥の表使を呼び伝えるのである。
この時は、お相手の中臈を指名するのが普通である。
それを表使が御台所と御年寄りに伝える。
御台所か或いは指名された御中臈は連絡を受けると迎える準備をする。
風呂に入り、お化粧を念入りにします。化けるのですね。
中臈の時の方が多かったようです。
この時、指名の中臈の様子は、白無垢姿で髪を櫛巻きにし簪を差さず、
御添寝のお清の御中臈より1間程先を歩くので、直ぐそれと判り、
長局の多くの女中の羨望の目で見られたそうです。
「よごれの中臈」になるのです。
反対は「お清の中臈」です。
このあと、中臈は髪を改められて凶器が無いか調べられる。
将軍の泊る座敷を「御小座敷」と呼ぶ。
部屋は上段と下段に分かれ、次の間も2つもあった。
将軍の布団は上段に敷かれ、御台所の布団は下段に敷かれた。
布団は、敷布団は厚さ30cm有る藁布団の上に真綿入りの
厚いものを2枚重ねにした。
是は万一下から刀で突かれても刺されないようにとの配慮である。
掛け布団は5枚重ね、まるで小山のようであったという。
しかし、一般的には掻巻を使った。
枕は東枕である。
お床入りである。
御台所の場合は、御台付の御中臈が「御次の間」で番をする。
更に、御清の御中臈も将軍と御台所の隣の間で寝る。
将軍の相手が御中臈の場合は、更に、別の御中臈と坊主が
寝所に入り将軍に背を向けて寝る。
その上、隣の「御次の間」には、襖を開け放しにしたまま、
お年寄りと御清の御中臈が宿直(とのい)をするのである。
詳しくは下の絵をどうぞ。
将軍寝所
ちなみに御台所の部屋とこの部屋は400m位離れているのです。
この間は残念ながら省略します。
この中臈が傍に居るという事は、相手の中臈が将軍におねだり等を
防ぐ意味である。
前例が有って、5代綱吉の時、柳沢吉保が綱吉の愛妾・染子を使い、
甲府百万石を与えるという、お墨付きを得たことが有ったのである。
幸い、綱吉が間もなく亡くなった事も有り、そのお墨付きは不発に
終わったがそれ以降、二人きりにしないようになったのである。
そして朝になると、お相手の中臈と添い寝の中臈ともに御年寄に事細かく
微に入り細に入り、戦闘の経過と結果の報告の義務があるのです。
しかし、逆にこの制度が若いうちに結婚をする割には、子供を得られない
原因となっていたのかもしれない。
御台所が産んだ将軍というのは、結局3代家光だけであった。
この頃は、勿論、添い寝は有りません。
というより2代秀忠は、大の恐妻家ですから、奥さんでないと
ダメであったでしょう。
「中将様一世一代の浮気」と云われ、後に、唯一の功績と云われた
保科正之の誕生となった訳です。
その前に別な旗本の娘と浮気し、児が出来ました。
娘はその後、城を出ましたが、児の行方は判りません。
恐らくは産まれた子供は殺されました。
やはり、人の眼の前というのは若い二人にとっては非常に抵抗が有り、
それが子宝に恵まれない事になったのかも。
見られると興奮する人でないとダメかも。(失礼しました)
御台所も、この当時、女性は30歳になると、お褥辞退するのが
普通でありそれをしない女性は「好女」(すけべい)として
軽蔑されたのである。
これは、公家の娘は体が弱いという事で、30歳過ぎると子が産めない
という事から来たそうです。
辞退して、その代りに自分の家来から容姿が美しく人柄の良いものを
身代わりにして将軍に勧めるのである。
そして、将軍が亡くなると落飾し静かに将軍の冥福を送るために
桜田の御用屋敷・別名比丘尼屋敷に引き籠り、位牌を守って
余生を送るのが普通であった。
御手付中臈は生涯実家に帰ることは許されず、もし、亡くなれば
桜田屋敷で葬式を出すことになります。
ところが静かな余生を送れなかった女性も居たのである。
5代綱吉の代に日野大納言の娘で新典侍という女性が居ました。
綱吉死後、淨心院と名乗り余生を送っていた。
しかし、享保2年(1717)突然、桜田屋敷から他の屋敷に移され
蟄居を命じられ、理由は「故有りて」であった。
これはあるまじき男女関係を意味する言葉であり、以後、監視され
元文4年(1739)この世を去った。
もう一例有ります。
13代家定の頃、12代家慶の愛妾・お琴の方は家慶死後は
菩提を弔っていたが、偶々、屋敷に修理に来ていた町の大工の容貌が
当時人気絶頂であった沢村宗十郎の錦絵にそっくりであった為に
心惹きつけられ、それからは寺社参詣にかこつけて逢引していたが
露見し、安政2年(1855)兄の屋敷に於いて兄の手に掛かり討たれた。
当時はこうした場合、娘の不始末は親、養女の場合は、養父が手打ちに
する事が普通であった。

