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話は、華麗なる世界・大奥へと戻ります。


これらの証言をした女中は9歳で大奥に上がり、

13才で御次になり後に御台所付の御中臈となり

27歳まで務めたという。

後に15代慶喜の小姓をしてた人と結婚している。

御年寄・瀧山の姪である。

素晴らしい記憶力の持ち主である。


勿論大正初期に亡くなっている。

明治になって、大奥を記した本が出回り、今も、

それらの本に基づいての記事が出回っている。

現代もネットで出てますが、どうも疑わしい点が多く

三田村老が7年掛けて取材したという、

こちらの大奥女中のが合致する部分が多いようである。

特に、他の本では大奥の行事に関しては、面白おかしく

書いてあるのが多い。





ただ、この方は高級女中であるので下級女中の生態については

あまり詳しくないようである。

やはり、きちんとした内容の本が少なく、又、女中奉公に入る時に

是より内の事は一切口外すべからず」という大奥女中誓詞を

きちんと守っている為に大奥の実態が伝わらず、想像や又聞きの分が

多い為に、間違いが起こっているようである。


 名古屋城 三の間から二の間
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これは尾張・徳川家の話であるが、今の埼玉県の庄屋の娘が縁を辿って

徳川家の女中に採用されたという。

すると、親は出世させたかったのでしょう。

決まった諸向きへの付け届けの他に、年に150両送って応援し、

御使番になったという。

お使番の給与は、年に切米4石、合力金5両である。

奥勤めの名誉が欲しいのでしょう。


「諸家奥女中袖鏡」には、

親の家貧しくて養育もなり難く、是非なく奉公するなり。

これは親の為、我らが為の奉公なれば、よくよく物事に堪へ忍びて辛抱し、

後々親を養うふに至らば、子たるの道にあらず。

親親に苦労を掛けぬよう勤め申すべく候は、のちのちは

天道の加護あるべし」とある。


文字と裁縫のテストがあります。
小奉書に「上々様御機嫌能(よく)被為成御座御目出度有難がり候

と書き、願い親の名前と自分の名前を書いて提出する。
裁縫の良し悪しを示す袖形を提出する。


然しながら、旗本の娘と雖も、文字も書けず、裁縫も出来ない女性が

多かったようです。

下級旗本の生活は苦しいので、そういったものを習う余裕も

無かったのでしょう。

それで前以って書いたものを提出し、袖方も後には取りやめになった。


それから合否の結果は1ヶ月以上かかり、合格の沙汰書が来る。

何月何日引越上り可 申し候」。

指定の期日に願い親同道で午前8時までに御客座敷に於いて

年寄りから名前、役向きを貰う。

そして、御目見え以上の者は、御台所と御目見えである。

御目見え以上の娘は綸子を着て、それ以下の娘は縮緬を着る。

御目見え以下のものは、御年寄と会います。


御客座敷で行うが、その際も、御目見え以上は敷居の外、

襖の際で拝礼し、それ以下の娘は部屋の外で拝礼した。

御目見え以下は更に区別が有り、お辞儀さえできないのもいた。

徹底した階級社会であり、最初から味わうのである。


御名下され

採用された時に、座敷で年寄から「御宛行書」という給料の目録を貰います。

それと一緒に名前を貰います。

どんな下級の女中でも名前を戴いた。本名を使うという事は無かった。

又、名は役が変わると変わるようで、「御殿女中」という本を書くにあたり

証言した大岡ませは、最初、(おやの)という名を貰ったが、御中臈になると

「おませ」になったという。

役が変わると名が変わるという。


名前の付け方

名前には、2文字と3文字の2種類があった。

2文字は、御側に仕える御中臈・御三の間・御右筆・御次の名前に

用いられた。

「お」から始まる名前である。


これに対して3文字は従来、政岡・岩藤のように仮名文字であったが

次第に4文字でも3文字として使用された。

漢字で書かれたものである。


これ以外では、京の公家の娘が持ってきた名前・姉小路・万里小路

などは多く、これを襲名し用いられた。

お小姓には、金弥とか弥生などの源氏名が多い。

小姓はお御目見え以上の家の出であり、13才になると元服し

元服小姓となる。


宿下がり

諸大名の奥向きは有りますが、大奥女中は一生奉公なのでありません。

御目見え以上では、親の病気は認められますが、御手付上臈は無理です。

ごく身分の低い女中ですと、奉公に上がって3年目に1回、

それからまた3年目に12日、3度目が16日と、3年目ごとに

許されるくらいだった。


自由に宿下がりが出来るのは、部屋方と呼ばれる、直の奉公をしている

女中たちの奉公人である。又者です。

彼女たちは、嫁入準備の為に行儀見習いという事で上がった奉公人ですから

春秋二季には宿下がりが出来たし、色々な口実を設けて帰ることができた。

そして、帰ると、さも直の奉公人のような感じを与え、御屋敷や大奥の様子を

吹聴した。

まるで椎茸髷であれば、大奥女中であるかのように思えた。

 椎茸髷
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特に三月が宿下がりの月であったので、芝居業界は特に力を入れて、

江戸の三座は華やかな狂言を出した。

演目では、奥女中を主役にした「鏡山」は、そうであった。

鏡山は、加賀藩騒動を元にしたものである。

しかし、女中になる時に「女中誓詞」に書いてあるように、好色がましき

事や、芝居小屋への出入りを禁じられているのである。


そこで、川柳では、「宿下がり 仕舞の指は 墓参り

親類知人を廻り、芝居見物をし、やっと最後の日に墓参りができた。


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宿下がりと並んで外に出るのに御代参が有ります。

これは文字通り、御台所に代わって歴代将軍のある霊廟を参詣

するものである。

増上寺や寛永寺等である。

この役は、御年寄が代行します。

御年寄りは行列を表の老中と同じように10万石の格式を以って

組みます。

その内容は、表使を筆頭にお使番、局、各1名。タモン等女中2名、

駕籠かき・陸尺、供方5名。添番1名、伊賀者1名であった。

駕籠は紅網代で窓の所に三つ紋があった。

ちなみに中臈の場合は、家紋は一つである。

 紅葉山 江戸・東照宮
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尚、「千代田の大奥」では、紅葉山(東照宮)を代参するというように

書かれているがそれは間違ている。

紅葉山・東照宮の霊廟は女子は入れません。

将軍が明日、紅葉山参詣と決まると、大奥には「大清」という札が

下げられ、お月事の女中は将軍が大奥に来た場合でも、

傍にも寄りません。

それくらい徹底していましたので、まして、御代参は有りえません。

  芝居見物
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徳川家累代の将軍の霊廟は上野寛永寺と芝の増上寺である。

両方とも、金貸しとして大名貸を主にしていて、財力は強いものが有った。

取りはぐれが無いですから、将軍家菩提寺の名が強く訴えます。


それぞれ管理をする別当寺が有った。

上野の寺は参詣を済ませたあと、寛ぐところが無かったが

芝の方は、部屋も30くらい有り、坊主も大勢いて如才ないのも居て

面白おかしく遊ばせてくれた。

内々ながら芝居のお供をする者さえあった。

御代参の帰りには芝居見物が普通になり、中には御代参は名のみに

なって芝居見物を急いだり、ひどいのは、本人は猿若町に行って

空の駕籠だけが寺へ来るのも有ったという。

  芝居 4座
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あの有名な「絵島・生島事件」も代参から発生した事件であるが、

今回はそれとは違い、御代参のお供の筆頭である表使の女中と

別当寺の坊主が心中するという珍しい事件が起こった。

明和2年(1767)の事でした。

相手は、9代家重の霊廟の別当寺の坊主である。

6月12日は家重の命日であった。


坊主と奥女中の取り合わせが珍しく、又、この当時は、心中ではなく、

駆け落ちが流行していた頃であるから一層評判になったという。


表使は外部との折衝が多く外出することも多いので、接触する機会も

多かったのでしょう。

表使いは、御年寄と同じく、拝領屋敷を賜り、年間の地代をそこから

徴収することが出来た。

場所の良い処(日本橋)だと、年に8,9両くらいあったという。

拝領屋敷ですから、辞める時は返還します。


今でも残っているのは、文京区の音羽町です。

年寄・音羽がその地に拝領地を賜り、名が残りました。