諸藩の江戸詰めの藩士は、屋敷内の「御長屋」或いは「勤番長屋」と
呼ばれる屋敷の周囲を塀の様に廻らされた瓦葺き2階建ての
建物であった。
割り当てられる部屋の間取りや広さは身分によって違っていたが、
それぞれ専用の出入り口や便所があった。
加賀藩の場合は、長屋の新築や改装は藩が行い、居住者が
手を加える事は厳禁され、使用に関しては細かな指示が出された。
但し、畳や襖など建具の修理などは各自の負担であった。
先ず、長屋についての藩の規則がある
和歌山藩の門限は夜5つ(午後8時)
外出しても遊山見物、茶屋。旅籠屋、湯屋、酒食店、芝居小屋に
入ることは厳禁されていた。
ただ、享保年間辺りには、既に規律は緩み門限さえ守れば
大丈夫であったようである。
藩邸への出入りは鑑札が支給され、外へ出る時は門番に預け、
帰って来たら受け取って組頭に渡す。
また、出入の許された商人・百姓もいて、通行証を渡され、野菜や
魚、呉服、小間物などを扱う商人や、大工や左官なども出入りしていた。
勿論、賄をやってくれる小女も雇う事が出来たが、色々と問題が
有ったようです。
長屋の前で夕涼み 久留米藩
これらの絵は、かって江戸勤番を体験した久留米藩21万石の藩士達が
かって天保10年(1839)久留米藩・赤羽根屋敷にあった通称・田楽屋敷に
住んでいた。
明治になって、江戸の頃を懐かしみ、絵師に依頼して描かせた絵である。
色々な画が出てきます。
尚、田楽屋敷の名の由来は、「家屋東西に面し、朝日夕日向背を照らし、
炎熱に堪えず、豆腐の田楽焼あり、是と相類する。故に此の異名あり。
当時の勤労思わせるべけむや」とある。
有馬の水天宮で有名でした。
江戸っ子たちの間で篤い信仰を集め、塀越しにお賽銭を投げ入れる人が
後を絶たず、ついに毎月五の日には参拝を願う江戸庶民のため
門戸を開放しました。
それが「どうでありまの水天宮」とうたわれ、安産の願いを叶えてくれるという
評判で、有馬家と「情け深い」ことを掛けて「情けありまの水天宮」との
洒落た言い習わしが広まり、「恐れ入谷の鬼子母神」と
共に江戸の二大流行語となりました。
水天宮
話は江戸時代に戻ります。
只管帰国を待ちわびて(やっぱり田舎が良いのでしょう)指折り数えていた
或る日、藩主が江戸城に行きお暇乞い(帰国の挨拶)に伺候した際、
突然、幕府から御役(増上寺の火の当番)を拝命し帰国延期が決まると、
帰国を心待ちにしていた藩士が、「更に一両年を経過せざれば、
父母妻子と相見ゆるを得ず」と、荒れ狂い、暴飲する図が下のものです。
でも、気持ちはよく判ります。
余程衝撃的であったのか、壁にその日付・天保10年4月25日の文字が
書かれています。
でもこの御役拝命は、江戸留守居役の怠慢も有るでしょう。
留守居役は絶えず情報網を張り巡らして、このような情報を掴んで
いなければならない業務です。
各藩との留守居の情報交換は藩の財政を無視して遊郭や料亭などで
頻繁に行われたため、財政難に苦しむ各藩の国許や勘定方からは
怨嗟の眼差しで見られた。
幕府はこのような活動を見て登城停止にしたことも有ったが、直ぐ、不便さに
気づき復活させたことは、その辺に微妙なものがある。
留守居と取次の老中とのコミニュケーショが大事なのである。
それとも何らかの不手際があって、そのペナルティーでしょうか?
何も記録は有りませんが、多分、何らかの処分が
有ったのでないでしょうか?
続く




