江戸城
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突然話題が変わります。

御城の前で行列や見物に来た人で一杯の話をしています。

処で、この方たちのトイレはどうなっているのでしょうか?

その辺が心配になり、大奥と並んで最も得意の分野へと

足を踏み入れます。

将軍便所
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将軍の大便所・小便所とも、冬季は火鉢を2個置き、

夏季は小姓が団扇であおぐ事が有ったという。

以前にも紹介しましたが改めて将軍のトイレ事情をどうぞ。


公人朝夕人
(くにんちょうじゃくにん)

将軍の「おっしこ入れ」を持つ役職である。

禄高50俵、10人扶持。代々土田家が襲名してきた。御家人です。

将軍に御目見え出来ますが、但し、町人と一緒で脇差を差しての

御目見えです。

所属は坊主衆です。

                       この下です。

                          上下矢印
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大変古い家系です。

宝暦11年(1761)に土田家が幕府に提出した由緒書によると、

承久元年(1219)から始まり500年以上の歴史を持つ。

永正10年(1513)足利10代将軍義稙から家紋を拝領。

そして、その仕事も継いできたのである。

記録では織田信長の尿筒を持ち、西美濃の土田村に186貫の領地を貰い、

その後、豊臣秀吉に仕え秀吉の尿筒も持った。

そして、徳川時代になって、家康の将軍宣下の際に御参内の為に

召しだされる。


ですから3人の英雄である信長・秀吉・家康の?を持ったわけです。

非常に価値の高い方です。

但し、徳川幕府は 寛永11年(1634)3代家光の時に上洛してから

文久3(1863)14代家茂の上洛の間まで上洛はありませんでした。

  将軍家茂の上洛を見る外国人
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3代・家光の上洛は将軍の威信と代替わりを示そうと、総勢30万を超える

大軍勢を率いて京へ向かい、家光が京に入る当日、この行列を

一目見ようと大勢の見物人が押し掛け、膳所(大津市)から京まで

人で埋め尽くされたと伝えられています。

明正天皇と後水尾上皇に拝謁し、新たに7000石を献上し、京市中の町人に

銀5000貫(銀1貫は約17両、約85億円)をバラまき、

大坂に行った家光は、大坂、堺、奈良の地子銭(ちしせん、固定資産税)を

免除しています。

この頃の徳川家は質素な家風で蓄財し、又、豊臣家の莫大な財宝とで

潤っていました。

ですから、あの豪華絢爛な東照宮を自力で建立できたのです。

  3代家光  将軍の御台所が産んだ唯一の将軍
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話は尿筒に戻りますが、従って、上洛の無い250年間土田家の仕事は

無かったことになります。

尿筒」を抱えていたのです。


土田家の仕事は、御所などに参内の時にだけ随行するものである。

城とか寺院などは随行しません。

ですから、その時は別な方が仕事を行ったのではないでしょうか。

ただ、将軍のに?触れる訳ですから、身分の高い方が崇高な業務を

遂行したのでしょう。


どうしてこの職が生まれたかというと、例えば将軍が朝廷に参内する時は、

束帯衣冠を身に付けます。そうしますと、身動きが取れません。

勿論、大名等も同じです。

生理現象を起こしても自分ではどうにもならないことから

その職務が発生したと思われます。


 束帯  老中・阿部正弘

ファイル:Masahiro Abe.jpg


       大紋                直垂

どう見ても手も足も出ません。
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勿論、城に居る場合は自分でします。

中奥で寝る場合ですと、夜中に起きることがあるそうで、その時は、

宿直(とのい)の小姓たちは脇差を差してお供して60m位廊下を歩き

用が終わるまで待ちます。

トイレ行くのに、60m歩くのです。


雪隠は大小の引き出し箱が有り、小は白木、大は黒塗りの箱で、

使用後は引き出します。


14代家茂が大坂へ船で行った時、大量の黒塗りの虎子(おまる)を

用意し、小用の時は屏風で囲い、用が済むと、その黒塗りの虎子を

大阪湾に投げ捨てたそうです。

開国攘夷の嵐が吹いている大阪湾に黒い虎子がプカリプカリと浮かんで

いる光景を思い浮かべると何か可笑しいですね。

トイレ-1  将軍用 使用後引出しを引出す 


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    続く