函館戦争
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さて海軍に行きました成之ですが、 勿論これには伏線があります。

幕末に榎本武揚らが反抗して北海道の五稜郭に立て籠もり抗戦しました。

その前の事ですが、政府の軍艦「浅間」が破損してしまい、何故か、

成之がその故障の修理にあたったのです。

勿論、修理技術は有りません。しかし、現地・浦賀に行くと人夫を集めて

とにかく応急措置を行い、五稜郭の戦いに間に合わせたという事が有り、

その1件が評判になり、「彼奴は海軍が判る」と、云った具合に

なったようです。

その結果が海軍の会計係に任命される運命になったのです。


これは、加賀藩で算用方として算盤の技術を生かし、加賀百万石の

大名行列の運用をし、それが「兵站の天才」という天賦の才能を

生かすことになったのです。

ちなみに加賀藩の人口は幕末の頃で100万人でした。

加賀藩の大名行列は、4千人の人数に上り、2つの行列、前は殿様で

後ろは家老が率いた。

ただ2つの列の間には1日のずれがあったそうです。

 加賀藩参勤ルート
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参勤交代の準備は、半年前から行い最初にするのは宿の手配であった。

これらの宿の手配を済ませないと下手したら野宿などいう最悪の事態は

絶対避けなければいけないからです。

宿泊の日程表を作成し、各宿の本陣等から請書を取り遺漏の無いようにし、

加賀藩の行路は、3つのルートが有りそこから選んでいた。

勿論、これは幕府の許可を得ての事である。

   箱根山中・大名行列
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大体が中山道を使うのが多かったようです。

これは、難所が、特に、川が少なかったからですが、それでも川留に会って

ひどい目にあったことも有ります。

そして道中での宿割、12泊13日分の旅費計算や支給、或いは行列での

藩士の役割など様々な事務処理を行う。

ですから、算用場の為すべきことは多岐に亘り、複雑である。


道中は家来も大変なのだが殿様も大変なのである。

明治になっての証言によると、広島藩主の浅野候によると、

「戦の行軍と同じであるから、夜中も起きていることを示すために

側に小姓が居て一晩中軍記物を読んでいる。」だから、眠れないのである。

勿論、小姓も咳一つできません。

では、寝不足をどう解消するかと云うと駕籠の中だという。

幕末政治総裁を務めた福井藩主の松平春獄は、ずっと駕籠の中で

寝ていたという。

但し、薄い座布団だけなので尻が痛くなってしまうので、この殿様は、

時々、あまり例が無いそうですが、馬に乗っていたという。


ですから駕籠の中も大変なのです。

大名行列については、大変面白いので別に書いていきたいと思います。

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当然ながら、立身出世した猪山家の元には、親戚を始めとして

生活に窮した、或いは職の斡旋を願う願いが殺到しました。

出来るだけこれには応じたが、全部には当然ながら応じきれません。


  薬屋の看板 鬼に金棒
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商売を試みた家は軒並み失敗します。

これは勿論、何ら知識も持たずに商売をしても

上手く行きません。

呉服店を開いた親戚などは、看板も出さずに開き、

資本が無い為に仕入れも出来ず在庫も無く、

売り筋の品も仕入れる事も出来ず、

その結果、半年ほどは親戚知人などに頼り商売したが、

間もなく行き詰まり失敗しました。






大体、このような結果が多く、その仕事に魅力を感じての開業ではありませんから

殆どダメになり、少ない償還金を無駄にしてしまい、その結果、生活に困り、

職探しをしますが有りません。

猪山家も平民よりも士族を信用し、金を貸した。

「病気難渋に付き手を合わせ拝む」その姿に同情し都合するのである、

しかし、その金は貸し倒れになること多く返済を請求しても

ダメであったようだ。

余りにも多くの親戚知人が援助を申し出てくるので、明治11年頃には

もう冷めた目で見るようになっている。


話は、前後しますが子供が5才になった明治5年、成之は、子供を

海軍に入れる為に英才教育をしようとするのである。

成之は、父に算盤で殴られ算盤の玉が飛び散るくらいの

スパルタ教育を受けました。

しかし、子供にはそれはやっていないようです。


何故海軍なのか、それは勿論自分の家は親戚とは違い高給を

取れるのもやはり官員に成れた為であり、その後を子供に

継いでもらおうとしたのでしょう。

没落した周りの士族を見て決意したのでしょう。


ちなみに成之は明治6年に8等官から7等官に上がります。

7等官は奉任官であり官位も付き(従4位)、この官位は旧幕時代の

前田家百万石の家老と同じものです。

この知らせを聞いた猪山家は大喜びをし祝賀会をします。


奉任官とは、高等官であり、3等から8等までの官員。

その上は勅任官であり、最高官僚。

奉任の下は,判任官である。

官員のランクで県知事などは勅任である。


明治時代の職官表は、1等から16等まであり、8等は、

丁度その真ん中に位置している。

しかし、給与は民間と比較し高額である。年収1200円、今の3千万以上。

1等は大臣クラスですが、この年収は成之の10倍以上、

ですから3億以上の年収になる。

如何に高額な給与を独占していたか判ります。


西郷隆盛は、月に500円、宏大な借家の家賃は3円で、しかも数十頭の犬が

走り回り家の中はボロボロであったそうです。

西郷は、かっての同志が自分たちの給料を千円以上に設定し、美妾を蓄え

たのを残念に思い「美妾を蓄え 貨殖を謀らば、戊辰の義戦も偏に私を営む

結果になり」と、死んだ同志に合わせる顔が無いと嘆くのであった。


ところで上野公園に西郷さんの銅像が有ります。

西郷の犬好きはよく知られていて、特に、雌の「ツン」という犬を

愛していたようです。

でも、銅像の脇の犬は、同じ薩摩の仁礼景範の愛犬をモデルにしたそうで、

その犬は牡犬なので銅像の犬には金玉が付いてしまったのです。

ファイル:Statue of Saigo Takamori, Ueno Park, Tokyo.jpg

以前紹介しましたが、大久保利通が西郷が段々と太って行くのを心配して

愛妾を薦めた時、西郷は、今度、愛妾を入れたから見に来てくれと

云いました。

それを聞いて伊藤博文が西郷宅に行ったそうです。

そうしましたら、西郷が愛妾を呼びましたら、大きな雌犬2頭が出てきて

西郷にじゃれてたそうです。


とにかく、西郷は犬が大好きで、西郷の死後出された本に「性甚だ犬を愛す

とあるくらいでした。

以前にも紹介しましたが、鹿児島に居た時、犬たちを連れて外に出た時、

犬たちに飯を食べさせようと、鰻屋に入り、自分は食べないで焼きあがった鰻を

次から次へと犬たちに食べさせ、気分を悪くした鰻屋のおやじは、もう、鰻は

無いと西郷を店の外に出したそうです。

そして、店に戻って卓の上に今の金で20万円置いてあったそうです。

勿論、西郷が誰であるか判らなかったそうですが。


話は猪山家に戻ります。

ですから子供を海軍に入れておけば良いと考えたのは必然です。

この当時、明治7年の猪山家の収支を見ると次の結果です。

年間収入   1235円。

年間支出    557円(これは東京と金沢2つの生活費)

繰越金     240円

現金       402円

預金・出資金  625円

貸付金      214円

不動産      5か所


要するに年間760円の過剰金が出ることになっている。

2千万円くらいです。

これは、親戚たちの年収の10倍以上の金額である。


東京と金沢に家を構え、それぞれ女中2人置く、こういう生活はもはや

上流クラスのものであった。

ただ、支出の中で海軍で使用される制服の欄があり、それを見ると

巨額の費用が計上されている。146円である。

この金額は、士族たちの年収の2倍の金額であり、海軍というものにも

金がかかるが、その制服にもお金が掛かるものである。

海軍は維持するのに金が掛かり、機動部隊1つ保有すると、

それにかかる予算は小国の年間予算にも匹敵すると

云われるくらい金がかかります。


そして、猪山家はこの過剰金の効率的な運用を考えます。

最初は、農地を購入しようとしたが、親族が次々と失敗するのを見て、

そして、あまり効率的でないと判断し、借地(不動産)に目を向け、

購入します。


今の東京タワーの場所に300坪を購入、タダみたいな値段です。

ただ、この頃、金沢から東京へ移住してきた成之の妻が病死するという

悲しい事態も起きています。

24年間の結婚生活でした。


続く