テレビでお馴染みでしたが、グルメとして現代では知られています。
ラーメン・牛乳であるとか蕎麦が大好きであり、旅の方は知りませんが、
若い頃は、かなり不良であったようです。
祖父・家康、父・頼房とは大違いで、女性には大変潔癖であったようで
どのような理由があったのでしょうか?
家康は子供20人、頼房は22人です。
「大日本史」などの文化事業を進め多大な貢献をした。
大日本史が完成したのは、光圀が手掛けてから250年後と云う
力作でした。
しかし、藩の財政は御三家としての格式を求められ、江戸在府である為に
その費用が多く嵩み、かつ紀州・尾張とは違い、両藩はそれぞれ55万石、
54万石であり、水戸は28万石と半分である。
かつ、紀州の檜・杉などの名産も無く、文化事業に費やす金額も多くかなり
財政を圧迫したようです。
水戸藩主の官位は、従3位権中納言が極位極官であるが、紀伊・尾張は
従2位権大納言であり、又、付家老も水戸藩は一人であるが、紀伊・尾張は
譜代大名から二人づつであった。
このように両家とは差が有ったのである。
德川御三家と云えば、紀州・尾張・水戸を指します。
当主の正室は後に御廉中と云われるようになりました。
将軍の正室は御台所です。
台所の方が偉いのです。
大名の正室は10万石以上が「御前様」でそれ以下は「奥方」、
将軍の娘を正室に迎えた場合は全く別の呼称が用意され、
夫の官位が従三位以上なら「御守殿様」、(加賀藩がそうです)
正四位上以下なら「御住居様」。
何しろ幕府は全ての事に於いて細かく差別化を行い、それによって
大名を統制していきました。
頼宜・義直・頼房が藩祖ですが、これら3人の家康の子は一癖も
二癖も有りますが、逆にだからこそ政権が安定し基盤が出来たと
思われます。
そして、母が全員違います。
信長にしろ秀吉にしろ残された子は皆平凡であったようですが、
この違いは何であったのでしょうか。
不思議ですね。秀吉は跡取りが居ないのが影響して(政権運営の
問題も有りますが、飽きられてしまった)離れて行った武将が多かった。
その点、家康は跡取りは嫌になるほどいました。
誰が後を取るかと云う問題まで起きました。
徳川家も後継が秀忠にすんなり決まったわけではなく、忠吉も有力な
候補であったらしくて家康も重臣を集めて重臣たちにこの後継問題を
計ったこともありました。
丁度、秀忠が主力軍を率いて上田で足止めされて関ヶ原の戦いに遅参し
家康が怒って秀忠との面会を断ったりしていた頃でしょう。
上田城
家康が重臣を集めて謂ったそうです。
「徳川実記」によると、
「何れにか家国を譲るべき、汝ら思う所を申せ」
その会議では、圧倒的に忠吉を推す声が強く、秀忠を推す声は
無かったようです。
特に、井伊直政は、忠吉の後見であったのでそうでしょう。
しかし、その時、重臣の一人大久保忠隣が謂ったそうです。
「人望の帰するところ、如何で此の君を捨てさせ給わん」
どうして、秀忠を人望があるのに捨てるのですか?
これを聞いて家康は二,三日考えてしまったらしい、そして、
「大久保の謂ったことは正しい。家督は秀忠に譲る」
と云って、それ以降は問題にならなかった。
そして、秀忠の偉いところは、自分を押さなかった武将もこれ以降も
重用していった事です。
しかし、これらの事は家康と重臣・家臣との絆が如何に固いものであるかを
示すものでしょう。
家康は、本多忠勝が云うように「わが主はハキとせぬ人で・・」というように
自分の意見をあまり出さずに、家臣に十分意見を出させて、其れで決断し
実行していきました。
家臣にとっては、跡継ぎに関しても自分の家も同然の感覚で
あったでしょう。
続く

