「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。
船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は
日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。
予もいずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂泊の思ひやまず。
かいひんにさすらへ、去年の秋、江上の」破屋に蜘蛛の巣を払ひて、
やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の
ものにつきて心を狂わせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず
股引の破れをつづり、笠の尾つけかへて、三里に灸すうるより、
松島の月まず心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに、
「草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家」
表八句を庵の柱に掛け置く。
「奥の細道」
と、まだ見ぬ東北への憧れと長旅への不安を抱いて、もうこれが最後の旅と
心に覚悟を決めて旅立った松尾芭蕉。
道祖神 路傍の神。集落の境や村の中心、
村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに置かれ、
古い時代のものは男女一対を象徴するものになっている。
奥州道中とは、 奥州街道は江戸から宇都宮~白河~福島~仙台~
平泉~盛岡~青森~津軽半島の三厩へと至る日本最長の街道で、
幕府道中奉行は江戸から白河の区間を管轄し「奥州道中」と呼んでいる。
奥州は、平安時代、京の人々にとって憧れの地であった。
京ブームと云ってもよいほどであり、それは、坂上田村麻呂から始まる。
坂上田村麻呂
平安時代天平の頃、東北に反乱が続き朝廷は田村麻呂に4万という
当時として大軍を授けて鎮圧に向かわせた。
八町四方という胆沢城を築き無事平定した。
その時持ち帰った奥州の情報が段々と広まり成熟して説話になったと思われる。
平安時代には、憧れの地であり、様々な歌が詠まれた。
代表的なのが次の歌である。
「都をば霞と共にたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」 能因法師
「後拾遺和歌集」
実はこの歌は、実際に白河の関に行ったのではなく、数か月外出せず
「色黒く日にあたりなして後」人前に出て、ちょっと陸奥へ行ってきました。
と云って、歌を披露したそうです。
それくらい、奥州というのは、人々の夢を掻き立てるものでしたそうです。
古来、奥州は馬の産地として知られていて、東北・関東は馬の文化でも
あります。それに対して、西の地域は、牛の文化です。
東は馬で以って農耕をして、一つ屋根の下で暮らしました。
源頼朝の乗馬として有名な「生食」と「磨墨」はいずれも奥州産で
当時奥州の王であった藤原秀郷が献上したと思われる。
この馬は、平家追討の際、宇治川の戦いで、佐々木高綱に与えて、
先陣争いをしたことで知られている。
後に、頼朝は乗馬中発作を起こしたらしく亡くなっています。
なお、この頃奥州は、馬と砂金、海獣の毛皮、鷲の尾羽などが
名産であったようです。
宇治川の戦陣争い
千葉家 母屋と馬屋が直角につながっている。
馬を大事にして、馬屋を南向きになっている。最盛期で馬20頭いたという。