松尾芭蕉「奥の細道」から、「とかくして越え行くままに、阿武隈川を渡る
左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸、下野のさかひて
山連なる。影沼という所を行くに、今日は空曇りて物陰映らず。
須賀川の駅に等窮と云う者を尋ねて、4,5日とどめられる。
先ず、「白河の関如何に越えつるや」、と問ふ。
「長途の苦しみ身心疲れ、かつは風景に魂奪われ、懐旧に腸を断ちて、
ばかばかしう思ひめぐらさらず」
長旅で疲れてしまい、白河では句も作れませんでした。
それで、須賀川で初句。元禄2年(1698)に、
「風流の初めや奥の田植歌」
芭蕉は、同宿の検断・相良伊左衛門宅(等窮)に7日間逗留し、
地元俳人との交流や史跡名勝の探訪した。
等窮とは?
相楽伊左衛門(1637~1715)。
問屋を営む傍ら、検断(駅長)の要職をつとめた。
江戸期の須賀川俳壇の中核となる。石田末得の門人。
「葱摺」や「伊達衣」などの著書がある。
芭蕉とは、等躬が問屋の用で江戸へ出府した折、俳諧を
通して知り合ったと思われる。
江戸から38番目の宿
宿の長さ15町50間
須賀川は鎌倉時代以降、二階堂氏の城下町として栄えたが、天正年間、
伊達政宗に攻められ城は落城その後、江戸時代になって白河藩領となり、
奥州街道屈指の宿場町として栄える。
戊辰戦争により町の大部分が被害を受けたため現在の町並みに
旧宿場町の面影をしのばせるものは少ない。
須賀川一里塚
日本橋から59番目の一里塚で、「江戸から須賀川六十里」といわれていた。
須賀川は、蒲生氏郷の頃に城下再編の為に、奥州街道沿いに
南から本町・中町・北町が形成された。
慶長3年(1598)には三町に問屋場・市場が置かれ、各町とも交代で
高荷降ろし、駄賃付け、伝馬諸役を負担した。
会津と磐城への街道の分岐点として賑わった。
勝誓寺
延文5年(1360)、長沼城主・新国上総守による建立。
円谷幸吉
東京オリンピッククのマラソンの銅メダリスト。
練習最優先で、婚約にまで私生活に干渉され
故障と重なり悩んで自殺した。
「軒の栗庭園」
等窮坐像と芭蕉、曾良の立像がある。
元禄2年(1689)6月9日に芭蕉と曾良が等窮宅を訪れ滞在した。
その時の句
「世の人の 見つけぬ花や 軒の栗」
と詠んだ句にちなんで、軒の栗庭園と名付けられた。
芭蕉記念館
芭蕉の句に因んだ掛け軸、扇子や芭蕉の遺品の旅の道具類が展示されてる。
須賀川城址
『藤葉栄衰記藤葉栄衰記』によると、1399年(応永6年)足利満兼が
奥羽支配のため遣わした満貞・の配下であった二
階堂行続(二階堂治部大輔)が築城した。
天正17年(1589)10月、伊達政宗は、大軍を催して釈迦堂川の北側に
本陣を構え、釈迦堂川を挟んで合戦の火ぶたが切られた。
政宗に内通していた二階堂家重臣の守谷筑後守が、城本丸の風上にあった
二階堂家の菩提寺・長禄寺に火を放ち、火はたちまち四方に飛び火し、
町中が火の海と化し、須賀川城は火炎に包まれ、文治5年(1189)から
400年の長きにわたり、南奥羽の雄として権勢を誇った二階堂家の
須賀川城も遂に落城した。




