村にはいると、両側に人家が並んでいる。
福川から次の冨海迄2里半。
左は海辺で、右は山である。
坂の上山とか書いてある。
人家の切れたところから右に上がる道がある。
「太閤道」という。朝鮮の役の際に、秀吉がこの道を通ったからという。
その上に、若山古城という。
若山城跡 中世大内氏の重臣だった陶(すえ)氏歴代の城。
海沿いの道は、松並木が続き矢地村である。
右の森田山が有り一里塚がある。
赤間関へ22里、小瀬川から14里。
登り坂になって、ここが赤坂峠であり、村境である。
坂を下りると、駕籠立場がある。
左側に祇園社、先に舟の形をしている船山という小さな村がある。
人家があまり無い道を進み、上り坂になると椿が峠であり、境である。
菱屋平七の『筑紫紀行』に「是れより左右山の中を行く。
小坂を登りて峠に至れば椿峠という所にて人家十軒ばかりあり。
此所郡境とて石を立てしるせり。」と書き記している。

船山神社

建保4年(1216)流行病を治めるため、京都の祇園社の分霊を
祀ったものである。
その後、元徳2年(1330)に再建されたという。
往古は舮田と書いていたが、いつの間にか間違い今では戸田と書いている」
と記している。現在の戸田(へた)といわれる地名の発祥の地である。
光西寺

開基は宗興法師が天正5年(1577)に菅原に創建。
寛永10年(1633)二世尊雪法師が光西寺と改称すると同時に
現在地に移転した。
温田観音
温田観音の手前には温田の一里塚、御駕籠立場、萩御茶水茶屋所などが
建ち並んでいたようだが、今は全く面影がない。
真福寺

寛永年間(1624-44)に仁庵等恕和尚によって開基。
福川宿の脇本陣として西国大名や徳山毛利藩の休み処になった。
干拓や漁業、農業の生産活動指導の拠点となり、
後に「周防三福寺」の一つと称されるようになった。
本堂裏の墓地に三体の板碑が安置されている。
一体は乾元二年(1303)という古いものである。
福川宿本陣

徳山領内の宿駅には徳山~富田~福川~富海があり、
福川には本陣が設けられ、山陽道において幕府の要人や参勤交代の
西国大名などの宿泊や休憩の場所を提供する重要な宿駅の
役割を担いました。
福川町の本陣・脇本陣は、共に御茶屋と称して代々福田家が預かり
西町にある本陣は表口17間、奥行14間の門構えのある大きな屋敷でした。
現在の本陣門は天保9年(1838)に建てかえられた。
享保6年(1721)幕府の参勤交代における随行員制限令が発せられ、
山陽道においてもそれまでの海路から陸路へと行路が変わり、
それから山陽道が繁盛するようになった。