三原城天守台

本丸天主台

三原は浅野甲斐守が領主で2万6千石である。

城の後ろの山を桜山という。

小早川隆景が天正8年(1580)に築城。

福島家から浅野家へ支配が移り、浅野甲斐を城代として置いた。


三原城は、瀬戸内海を軍事的に掌握する為に建てられ、

海城」として築城された。

当時はその姿がまるで海に浮いているように見えたため

浮城」と呼ばれ、

豊臣秀吉や徳川家康もここに泊まったといわれている。

今は堀と石垣が残っている。


村にはいると番所が有って、東の衛門がある。

右が山手で寺院、左が人家が立ち並んでいる。

左は海に近く塩浜があり、城の北と西に家来町が有り、

西町に西の衛門がある。


司馬江漢の「西遊雑記」では、「三原城、昔は48櫓ありて潮入もよく、

東西の堅めも有りて要害よく城地なり。此の海浜には塩浜数多にて

地の利多く、豪家多し」とある。


三原より西に山中村というあり。

一村梅樹数万本、花の頃は諸方より見物に来る地なり。

他国に出る鳥梅はみな此の処の製なり」

梅酢・焼梅・削り梅・漬け梅などである、利益も多い。

正徳3年(1713)序刊行の百科事典『和漢三才図会』には、

烏梅の産地としてまず備後三原が挙げられている。

薬用や染色に古くから用いられてきた。

『延喜式』三七典薬寮の条には「中宮臘月御薬」として

「烏梅丸」の名が見えるし、腫れ物や下痢の妙薬として

「烏梅湯」としても用いられた。

   菅茶山


漢詩で有名な菅茶山は、1813(文化10)年2月27日、

三原の梅見に出掛けた。

茶山はことのほか梅を好んで、詩集「黄葉夕陽村舎詩」

にも数多く梅の詩が詠まれている。特に三原の梅林には

何度も訪れ花見を楽しんだという。


又、酒も三原酒として有名。

三原は万葉の頃より酒どころとして全国に知られています。

慶長のはじめ福島正則に招かれて三原で酒造りを始めたのは

川口屋助一郎とその一族でした。

のちに信州に配流された正則に報恩の酒を送りつづけたという

美談が有ります。

正則は「一段とこれ以前よりはすぐれ候かとおぼえ申し候」と

褒めている。

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後にですが、宇喜多秀家との逸話があります。

関ヶ原戦敗北後、八丈島に流島の秀家が、ある日、

島の岬から見ると、船がやってきます。

喜んだ秀家は久しぶりに見る船を呼び寄せました。

偶然、その舟は旧領・三原の領主・福島正則の藩船でした。

船荷に三原の酒を積んでいるのを知った秀家は、酒を所望し貰います。


かたや酒を分け与えた武士は、主君をよく知っています。

切腹を覚悟し、主君・福島正則に報告言上します。

豈はからんや、正則は涙を流して、その処置に感謝をしたそうです。


正則は、関ヶ原後、一段と酒乱がひどくなったそうで、ある時、

船で江戸から帰国の際に酒で酩酊状態の時ですが、家来に命令を下しました。

ところが、何時もいるはずの寵愛の家来は、生憎、その場にはいなかったのです。

そうとは気が付かない正則は、命令が実施されてるものと思ってましたら、

命令を行っていません。怒った正則は、その家来に切腹を命じます。


やがて時が過ぎ、酔いが醒めた正則は、いつも寵愛の家来を呼びます。

しかし、その家来は既に切腹し、この世にいません。

それを初めて知った正則を首を抱きしめ泣き詫びましたそうです。


やはり、豊臣家を滅ぼしたという罪の意識が正則の精神を

荒廃させていったのでしょう。

正則は、小さな頃より秀吉に加藤清正と共に育てられた武将です。

秀吉の妻・寧々に台所でおにぎりを握って貰う事も多かったでしょう。

石田三成憎さに家康に加担し、結果的に豊臣家の恩義を裏切った

罪の意識だったのでしょうか?


後年、広島城を無断で改築したとの罪で改易され、安芸・備後50万石を没収

信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)

に減封・転封される。

移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居した。

そのとき、江戸にいた正則の謀反を恐れた幕府は、前代未聞の警備体制を

布いて事に備えます。

しかし、正則はもう気力も何も無く、猛将・正則を知る人は、

その衰えに驚いたそうです。

復元天守と水堀

若い頃の正則の逸話というと、浮気がばれて、怒った奥方が大薙刀を

振り回し、慌てた正則は城中を逃げ回って、許しを乞うという話もあり

逸話に事欠かない武将であり、しかし、民政にも優れていたようです。

民政でいうと、加藤清正、石田三成でしょうか。優れていますね。


  菱垣廻船


既に、三原では、従来のアルコール度数の低い濁り酒ではなく、

度数の高い現在の酒に近い諸白(清酒)が作られている。

特に江戸時代の三原酒は,銘酒の中で最上とされる

川口屋の「菊の水」や角屋「亀の鈴」は、とくに将軍家献上の御前酒

醸造されていました。


元和4年(1618)平戸のイギリス商館長のリチャード・コックスは

上等酒の諸白14樽を購入している。


菊水・玉乃井・青柳・白芙蓉の名が知られている。

   

塩は、城東に塩田がある。凡そ9区あり、北国に売れている。


「芸藩通志」によれば、名物は、栗、西瓜、わらびが名品。

水苔(みずのり)と笹縁(ささべり)が名産。

水苔は、海の物ではなく水流で取れる苔。
笹縁(ささべり)は、元禄から植えていたが、海藻に似ているもの。


城の前には聖トマス小崎像

三原 観光の写真 ■聖トマス小崎像<b...(写真) by Mecha GodzillaⅡ.T&Nさん

豊臣秀吉のキリシタン禁教令で長崎で処刑された殉教者26人の中にいた

14歳のトマス小崎。

京都から長崎へ護送される途中、三原にて伊勢の母マルタに書いた

別れの手紙が処刑後に父ミゲルの襟元から発見、ローマで保管され、

日本26聖人として、世界の人々にあがめられているという。

内容は「私のこともミゲル父上のこともご心配下さいますな。

天国の全き幸福を失わぬよう努力なさいますよう、人から

いかなることを受けようと耐え、すべての人に大いなる慈悲をかけられますよう。

陰暦十二の月二日 安芸の国三原城にて」


やっさ祭り

1567年(永禄10年)、戦国武将の小早川隆景が三原城を築いたことを祝い、

城下の人たちが踊ったのが始まりと伝えられている。

やっさやっさ」と声をかけながら三味線、笛、太鼓の響きに合わせて

踊りを披露する。


次に続く