神辺は古代から交通の要衝として、室町期には守護所が置かれ

政治の中心でした。


神辺宿は、安那郡川北村の七日市、三日市から川南村の十日市が宿場で

町屋が建ち並んでいる。
七日市に東本陣、三日市に西本陣があった。西本陣は、尾道屋菅波氏が

努めており、筑前藩黒田家がおもに利用していた。

西本陣は、瓦葺平屋建本屋で広島県内では唯一本陣がしっかり残っている。


神辺の近く、福山は、江戸時代になるまでは何にもない地域でした

江戸時代に入り、関が原で西軍が負け、毛利が撤退したあと、

福山周辺を治めるため、水野勝成、徳川方の譜代大名が

神辺に入部してきました。
神辺は、国分寺もあるなど古くからの町でしたので、そこに、

神辺城を築き政治をはじめました。


右手にこんもりした林がある。

奈良時代に創建された備後国分寺。

その奥には、元禄7年(1694)に建立された国分寺がある。

このあたりから、かっては石州銀山道が北に向かっていた。

備後国分寺

国分寺

大化改新後、741年(天平13年)聖武天皇の国分寺建立の詔により、

諸国に国分寺が建立されていき、ここ下御領に備後国分寺が出来た

最近の発掘調査により、塔、金堂、講堂が発見されている。

600尺四方の敷地であり、また七重の塔を有していたいう。


茶山塾。寺小屋風景
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宿に向って行くと私塾として有名な国の史跡でもある廉塾がある。

廉塾は、江戸時代の儒学者・菅茶山によって備後国(現・広島県福山市神辺町)

に開かれた私塾。

菅茶山講堂

黄葉山にちなんで、黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)と呼ばれていた。

天明元年頃(1781)ここに開き諸国から遊学するものが多かった。

文化・文政期に最盛期を迎えた。いつも30名ほどが在籍していたと思われる。

門下生では頼山陽が塾頭を務めたという。

尤も、1年くらいであり、学力は高いものがあったが、茶山の目指すところとは

違っていたようです。

宿場町東の本陣の近くにある。

  神辺城跡

西側から見た本丸付近遠景

左に神辺城 がある。

建武中興の頃に備後国の守護として築城された古城である。

福山城が築城されるまで政治の中心であった。

今は、一部の石垣と堀が残されている。

夕暮れ時に、この城から神辺平野を見ると、この地出身である

葛原茂の童謡・♪「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む」の1節が頭に浮かぶ。


本陣が左側に西本陣・菅波久四郎、右側に東本陣・菅谷喜兵衛。

今は、菅谷家は残っていない。


菅波家は現存しています。

黒塗りの土塀とどっしりした風格のある建築です。

神辺本陣

延享5年(1748)に作られた。

部屋数27部屋、畳200畳。

主従が70名の収容ができるほど規模が大 きい。

左手奥に殿様の居室がある。筑前黒田藩がよく使っており、

「筑前少将宿」「松平下野守」などの木製の宿札が数多く保存されている。


今津へ4里8町、本馬が178文。

左の福山城主の茶屋が有り、右に高札場がある。

この村は南北2つに分かれていて、北が川北、南が川南、

庄屋・問屋も2つに分かれている。


備後吉備津神社

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「延喜式」の神名帳には無いが、備中吉備津神社の分霊を

祀ったと云われる。

12世紀初頭には備後一の宮と称され、現在も「いっきゅうさん」と

呼ばれ信仰を集めている。
本殿と狛犬・毛抜形太刀が重文指定である。


山陽道からは外れるが、福山がある。

芦田川の河口の港町、明王院の門前町として古代から栄えた。

元和5年(1619)に入部した水野勝成が城と城下町を作り

備後最大の町となった。


福山城は、国史跡として在り、伏見櫓・筋鉄御門は往時の姿をとどめ

重文に指定されている。

天守閣は空襲で焼失したが、1966年復元された。

再建天守


明王院

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奈良西大寺の末寺で、創建の時期は明確でない。

草戸千軒町を門前町として中世を通じて繁栄した。


本堂は元享元年(1321)、五重塔は貞和4年(1348)の創建、

共に国宝である。

   五重塔

本尊の木造11面観音立像は平安初期の作で重文である。

尚、山門・庫裏・書院も県重文である。


埋もれた中世の町・日本のポンペイ

   復元された草戸千間町模型
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草戸千軒町は、近世にかけて800年に亘り門前町・湊町として

繁栄し、芦田川の氾濫により寛文13年(1673)町全体が流された。

   草戸千軒町中州跡
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宿に戻ると、
村境に棒杭が有って「東上方道 西九州道 南福山道」とある。

此処から1里半、福山城主が参勤の道で、途中に湯の坂と大峠がある。