寺沢家改易後、中津藩に編入された深江宿は、

怡土郡中津領24か村の年貢米の集散地であり

豊前中津から奉行が駐在していました。

国境でもあり、その監視の意味も有ったのでしょう。


正覚寺には、大燈籠が有ります。(天保3年(1832奉納)

横にはお地蔵尊が祀られています。

その先には、延寿院が有り、その境内には中津藩領の国境石がある。


正覚寺

近くには奉行所跡もあるが、今は跡形もなく、中津藩奉行所跡の標示がある。

又、川の橋の所には「中津藩船着き場跡」の支柱が立っている。

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梅屋宿場

四差路を隔てて、大燈籠が有る。

天明・文化・文政と大火があったためで、天保3年(1832)に火事除けの意味で

大燈籠が建てられたという。

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深江神社

深江神社

宿の中心に有る深江神社。

ここでは、天正20年(1592)朝鮮出兵の為に名護屋城にいた秀吉は、

この神社に参詣し、茶会を催しました。

その時、秀頼誕生の報を受け取りました。

秀吉は喜んで神社を参宮にし、小早川隆景に社殿の再建を命じました。

神社隣りの深江小学校は、秀吉の茶屋址と伝えられています。


文禄・慶長の役で秀吉は京都上洛の際は、まず、深江に停泊し、それから

名島に向かったと云います。(小早川家文書より)


鎮懐石八幡宮

鎮懐石八幡 

神功皇后が応神天皇を懐妊しながら朝鮮半島へ出兵した時、

卵形の美しい二個の石を求めて肌身に抱き、鎮懐として出産の延期を祈られた。

願いは叶って帰国後宇美の里で応神天皇を出産、経尺の璧石を

子負ヶ原の丘の上に奉納したので、これを鎮懐石と称して

皆が崇拝するようになったという。


境内には、九州最古の万葉歌碑がある。

鎮懐石萬葉歌碑


深江から大入に向う海岸に「わくど石」があります。

昔旅人が旅の安全を懸けて、「わくど」(カエル)にかけ、「行って帰る」

と、縁起を掛け無事を祈ったのでしょう。

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海岸には「包石」が有ります。

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自然が造り出した造形品です。

伊能忠敬は「測量日記」の中で、

海辺に包石があり、古は、鼓石という」と記されている。

又、古歌には

名にし逢う 響きの灘の白波は 鼓の石に おとつるるなり

と、詠われています。


肥前の国と筑前国との国境が有ります。

唐津街道は、福岡藩の国境を過ぎて唐津に向います。