西南の役の最大の古戦場であるこの付近は、当時は昼、尚暗いき森林で、

大砲や弾薬を運ぶ道はなく、麓から頂上に達する落差60mの切通した田原坂には、

官軍、薩軍双方がとりでを築き、一進一退の大攻防戦が展開された。

結果は薩軍が敗退したが、この間7日間はみぞれまじりの雨また雨の連続で

あったと伝えられる。

   激戦の跡をつたえる民家の弾痕。

政府軍の小銃は元込式のスナイドル銃で雨であっても問題は無かったが、

西郷軍のは旧式の先込式のエンピール銃は雨で湿り、発射が困難であり、

弾薬も不足していた。

これに対して、政府軍は一日に小銃弾を32万発、大砲弾1000発を撃った。

雨には大いに困ったようで、しかも、政府軍は制服はラシャでしたが、

西郷軍は、木綿の為に体のまとわりついて、身体の行動を阻害したという。

1877年、フランスのニュース紙「Le Monde illustré」より、西郷隆盛とその幹部たち


    四斤山砲
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両軍の火砲を比較すると。

野砲は、政府軍30、  薩軍2

山砲、      47      28

臼砲       29      30

砲兵     2272     200.

と、政府軍が優勢であり、特に、

暗殺された大村益次郎が乱に備えて

造らせておいた四斤山砲は威力を発揮した。





   行き合い弾
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この戦いの戦場は実に狭く、南北8キロ、

前後6キロほど空間内を16日間

狭い空間を両軍が撃ち合ったのである。

今も残っているが、「行き会い弾」がある。

双方の小銃弾が空中で衝突し噛み合った

ままになっているのである。

この戦いが、如何に凄惨で苛烈なものであったかが判る。



 西郷小兵衛  隆盛の末弟 左胸部に被弾戦死。18歳。
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この戦いの結果は
政府軍が勝利をするのであるが、

この勝利の結果、西郷軍の勝利に熱烈に

期待を寄せていた

日本の不平士族や批判勢力を

一斉に沈黙させてしまったのである。

丸で、全ての反対勢力を西郷が持って

i逝ってしまったようである。


古来、律令時代から徳川時代と無言の

批判勢力であった薩摩武士団はこのようにして

消滅したのである。





雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂
右手に血刀左手に手綱、馬上豊かな美少年
春は桜秋ならもみじ、夢も田原の草枕
田原坂
雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂
右手に血刀左手に手綱、馬上豊かな美少年
ああ田原坂あ田原坂あ田原坂あ田原坂田原坂
あああ」

同町にある熊本市立五霊中学校の卒業式で歌われることが伝統となっている。