肥後藩中屋敷と赤坂溜池落し
メタボンのブログ

細川重賢は、博物学に造詣が深く、10種10冊の写生帳がある。

時・場所・状態を記録したものである。


    写生帳
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宝暦の改革

銀山公が最初に打ち出したのが、「申聞置条条」で、まず綱紀の粛正でした。

清廉な役人の登用を目指したのである。

Shigekata Hosokawa.jpg

ついで、藩を再建をするために大きな方針を定めます。

①財政再建

②行政機構の改革

③刑法の改革

④藩校・時習館の創設

⑤年貢の見直し

⑥産業の振興


財政再建

蔵元の変更、大阪回米の一本化を計り、大阪御用達との関係強化を図り、

借銀を確保。


行政機構の改革

奉行所の数を整理して、事務推進を図り、若手の改革派の登用、


刑法の改革

わが国最初の刑法典「刑法草書」を編纂。

流罪の廃止、徒刑。笞刑の採用。

又、徒刑の囚人に手に職を付けさせ、出所後の手段を講じるなど

近代の刑に近づいたたのであった。

IMG_9021 藩校址

藩校の創設

時習館、宝暦4年(1754)に創設され、儒学を中心にして、同時に武道所も作り

文武両道を目指した。

士席以上は身分を問わず、それ以下でも、成績抜群であれば入学が許可され、

特に優秀なものは藩費を支給した。


藩士の子弟は8歳の正月に入学し、試験に合格すれば13~17歳で「講堂」となり、

上位の学科を学べ、更に、前途有望な者と門閥の子弟25人が「居寮生」となり、

藩費で寄宿し、勉学を続けることができました。また、特に優秀な者は

藩外への留学も認められていました。


在国の時は、必ず時習館を訪れて成績優秀者を褒賞した。

更に、宝暦7年(1757)には、医師の養成機関として再春館を創設、

薬園をも設けた。

こうした評判が他国に伝わり、見学者や留学生が相次いだという。

  上杉鷹山

上杉鷹山.jpg

年貢見直し、産業の奨励も行い評価を得た。

年貢の公正な徴収を図り、農民の不満を解消するため、

土地と検地帳を1筆毎に引き合わせる「地引合」と呼ばれる検地を行い、

隠し田畑700町を摘発したりもしています。産業も奨励され

「ハゼロウ」や「こうぞ」を専売とし、養蚕を奨励した。


肥後椿

1829年(文政12年)の『文助筆記』では既に30品種の肥後椿が

鉢植え培養法とともに記されている。

現存する老樹から推定すると150年から200年以上の歴史があると考えられる。

肥後6花といわれ、肥後椿(ひごつばき)、肥後芍薬(ひごしゃくやく)、

肥後花菖蒲(ひごはなしょうぶ)、肥後朝顔(ひごあさがお)、

肥後菊(ひごぎく)、肥後山茶花(ひごさざんか)の6種がある。

江戸時代から明治時代にかけて熊本藩士とその後裔によって

育成されてきたという。


貨幣経済になっていた時代に、貨幣を獲得するには、換金性の強い

商品を作ることが必要でした。

それは、各種織物、蝋、紙、砂糖などである。


どちらと云えば、外様藩は時代に適応し産業の振興に力を注ぎ、結果を出したが

譜代藩は幕政に関与していた為か、適応が遅く苦しんだ。

米だけに頼っていたという事です。


長州藩などは、新田開発や塩の生産などで財を作り、

幕末かなりの金額を消費していたようであるが、それでも尚、明治になると

天皇に貯めて置いた特別会計から半分の40万両を天皇に差し出したという。

ですから、かなりの金額を持っていたから活発な倒幕活動が出来たのでしょう。

      長州・萩城

天守台 〔左端〕 と指月山


これら改革によって、銀山公は、上杉鷹山、紀州の徳川治貞らと並び称され

名君と称された。


尚、藩校として同じ名で時習館が今の愛知県豊橋にもあります。

吉田藩の松平信復設立の藩校「時習館」(1752年(宝暦2年)設立)。

その「時習」は孔子『論語』の「学びて時にこれを習う(学而時習之)…」

の一節から来ている。